うまくなるより大事なこと
矛盾するような話でもあるが、そうした熱意ある革新的な社中がある一方で、楽しみを目的に神楽を続ける人もたくさんいる。
「飲むために練習しよるようなもんで、練習は1時間もせんうちに飲み始める社中もあるよ」と笑って言う人もいた。
社中には、誰でも望めば加入できる。最近は、住んでいる地域に限らず、好んで遠くの社中に通う人もいる。よってさまざまな立場や年齢、温度感の人たちが長く居心地よく通い続けられる工夫が求められる。
西村神楽社中の代表、日高さんは話す。
「うまいやつが10人おったらなと思うたこともあります。でも長くやっててわかってきたのは、いろんなタイプの者がいて初めて一つのグループなんですわ。舞はうまくなくても、お客さんと絡むチャリ舞など3枚目の役が得意な人もおる。それは練習してできるもんじゃない。段取りがうまい人もおれば、荷運びが得意な人、いろんなタイプがおる方がいい」
神楽には、裏方も含めると、10〜20人は必要になる。社中が存続し続けるのに何より欠かせないのは、“人”なのだ。
「しばらく来れんかった人がたまに来た時、『久しぶりだの』って言うちゃいけんぞって皆に言うんです。わしも一回でも練習を休んだら行きにくい。そんなつもりなくても、負い目をもってる人には、嫌味に聞こえるかもしれん。
人が減って社中をやめるところはあっても、舞が下手で社中がつぶれたという話は聞いたことないですから」
若い頃から長く神楽を続ける人たちは、人生のさまざまなライフステージと折り合いをつけながら神楽と付き合うことになる。学業や仕事で多忙な時期があり、子育てがあり。
逆を言えば、つかず離れず、いつでも帰る場所があるということでもある。多感な時期の子供たちにとって、それは大きな居場所になる可能性も秘めている。
「子どもの頃から神楽やる子たちは、いちはやく大人の社会に入ることになります。我々の世代と、小学中学の子たちが一緒に何かをするなんてないでしょう。それも一つのことを通して一緒にやっていく。
実際、悪いことする子もおるんですよ。でも神楽さえやめさせんかったら、更生すると言われます」
温泉津舞子連中の結成ストーリー①
ただ神楽の舞を見ているだけではわからなかったが、取材を進めるうちに、石見神楽に関わる人たちの間には、縦横に強い関係性があるのだと知った。そのつながりのなかで、憧れの存在が生まれる。
私が石見神楽を知るきっかけになった「温泉津舞子連中(ゆのつまいこれんちゅう)」も、結成して20年の比較的新しい社中で、やはり子供の頃から神楽に魅せられた熱狂的な3人によって生まれた。
その一人は、神楽の面職人をしている小林泰三さん。現在42歳。幼い頃から、自他共に認める“神楽っこ”だった。
「当時、温泉津には社中がなかったんですが、母の実家が浜田にあって。そっちは年中、神楽にふれられる環境がたくさんあって。遊びに行くたびに、神楽を見ていました」
幼い頃の泰三さんの写真が残っている。5歳ほどだろうか。くりくり頭の少年が蛇の面をさわって遊んでいる。肩車されたまま夢中で神楽に見入る少年もいる。背景は浜田の「浜っ子春まつり」。舞を見るだけでなく、音や雰囲気、この光景すべてがたまらなく好きだったという。
不思議と、神楽は幼い子どもを惹きつけるらしい。「あのリズムが子どもには心地いいんじゃないか」と言う人もいたし、「鬼を退治する神様の構造は仮面ライダーやウルトラマンと同じなんです」という人もいた。
その後、小林さんは小学校1年生で神楽面にハマり、浜田の神楽面工房に通うようになる。そこで、後に温泉津舞子連中の代表となる大門克典さんと出会う。
「同じ温泉津町出身の人やから一緒に帰ったらと言われて。それが大門さんだったんです。僕が小学5年生で、大門さんは大学生。温泉津まで帰る道中、神楽の話で盛り上がったのをよく覚えています」
その十年後、地元の温泉津に共に社中を結成することになろうとは、まだ本人たちも想像もしていなかった。
プロフィール
フリーライター。長崎県生まれ。会社員を経て、2010年に独立。日本各地を取材し、食やものづくり、地域コミュニティ、農業などの分野で昔の日本の暮らしや大量生産大量消費から離れた価値観で生きる人びとの活動、ライフスタイル、人物ルポを雑誌やウェブに寄稿している。Yahoo!ニュース個人「小さな単位から始める、新しいローカル」。ダイヤモンド・オンライン「地方で生きる、ニューノーマルな暮らし方」。主な著書に『ほどよい量をつくる』(インプレス・2019年)『暮らしをつくる~ものづくり作家に学ぶ、これからの生き方』(技術評論社・2017年)