ニッポン継ぎ人巡礼 第4回

日本の宝「藍色」を守るために。新たな産業として藍染に挑む人たち

甲斐かおり
徳島の藍工房「Watanabe’s」のメンバー。左から二人目が代表の渡邉健太さん。(撮影/生津勝隆  以下記載のないものはすべて)

藍色は“ジャパンブルー”とも呼ばれ、日本人の生活の隅々にまで浸透してきた色だ。2020年東京オリンピック(開催は2021年)のエンブレムに藍色が起用されたことも記憶に新しい。だが、その藍染もいまや9割以上は化学染料である石油由来の合成藍が用いられる。日本で伝統的に行われてきた植物の藍葉を使った染めが行われているのは、パーセンテージにするとごくわずかである。もう天然染めは、この先減っていく一方なのだと思っていた。

ところが、藍のことを調べていて、ある事実に衝撃を受けた。アメリカのStony Creek Colorsという会社が、藍の葉の栽培を拡大させているという。需要の減るタバコの葉に代わり、藍の栽培を増やしていて、映像を見ると畑には青々と藍の葉が茂り、その規模は日本の比ではない。Patagoniaなどのメーカーの衣類を、沈殿藍(*1)の手法で染めているという。藍の葉が、合成藍に代わる天然染料としてアパレル業界で使われ始めているのである。

藍染めは日本のお家芸ではなかったのか。

地球環境や持続可能性を気にするようになった世界では、あらゆる物の原料が天然素材に置き換えられ始めている。藍もその一つ。だとすると、日本でも藍染を“伝統文化”としてだけではなく、産業として活用できる道筋は考えられないのだろうか。伝統的な手法を踏襲しながらも、産業として天然の藍染を発展させようとする人たちが、藍の産地・徳島にいた。

工房「Watanabe’s」で、天然灰汁建てで染められた藍色。

(*1)藍の生葉を水に浸けて発酵させ、葉に含まれている藍色素と酵素を溶かし出す。石灰を加えてかき混ぜ、酸化してできた藍色素(インディゴ)を沈殿させて染色に利用する方法。

「藍の国」日本

1890(明治23)年に日本を訪れたラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)は、初めて見た日本の様子をこう記している。

「青い屋根の下の家も小さく、青いのれんを下げた店も小さく、青い着物を着て笑っている人も小さいのだった」(『東洋の土を踏んだ日』)

日本に限らず、藍染は世界中で行われてきた。その歴史は古く、現存する最古の染色布は藍染で、エジプトのピラミッドから発見された約4000年以前の麻布らしい。日本には600〜700年頃に中国から藍染の原料となるタデアイの栽培法、染料であるスクモをつくる方法が伝わったとされている。
世界では沈殿藍が主流だが、日本ではこの藍の葉を発酵させた染料「スクモ」を用いる「天然灰汁建て(てんねんあくだて)」という手法が広まり、各地で行われてきた。

とくに江戸時代に木綿が普及すると、木綿がよく染まるというので、藍染めも一気に庶民に広まった。「紺屋」と呼ばれる染屋が各村にでき、衣服を藍染したり、染め直しを専業で請け負うようになる。藍は防虫や防腐の性質ももつことから、野良着をはじめ、のれんや前掛けやハッピと、あらゆるものが藍に染められた。

日本中の生活の隅々にまで藍は行き渡り、かつて日本は「藍の国」だったのである。

以前見せてもらった、染めて何十年も経つ野良着。みごとに藍染されていない部分だけ虫に食われていた。防虫や殺菌など、藍染に機能的な意味があったことの証。(撮影/Rui Izuchi)

日本の藍染を支えてきた「阿波藍」

そうした江戸時代以降の藍文化を支えてきたのが、染料「阿波藍(あわあい)」だった。
藍染につかう「スクモ(蒅)」の中でも、徳島でつくられるものを、呼称として「阿波藍」という。

阿波の国でつくられるスクモは質がよく、各地で製造される「地藍(じあい)」と区別し、ブランド品として「本藍」や「阿波藍」と呼ばれた。

乾燥させた藍の葉に水を加えて定期的に切り返し(混ぜて上下を入れ替える)、数ヶ月かけて発酵させる。できるのは堆肥のようなもので、流通しやすいようこれを突き固めた「藍玉」が流通した。江戸時代から明治にかけて、阿波の国はスクモの一大産地だったのである。

スクモ。一見、土や堆肥のよう。甕(かめ)にスクモと灰汁、貝灰、フスマ(小麦の外皮)などを入れることによって、水に溶けないインディゴ成分が還元(酸化の反対。酸素を取り去ること)され、染め液になる(下の写真)。この過程を「藍を建てる」という。
藍建てした染液。仕込んで3〜4日後には発酵が進み色が出始め、藍甕(あいがめ)を攪拌すると泡が出て、中央に「藍の華」と呼ばれる泡の集合体が浮かぶ。液の調子を判断する目安となる。この液に布を浸して染める。
スクモづくりの過程。発酵により熱を発している。

徳島が藍の産地になった理由の一つは、吉野川にある。暴れ川とも呼ばれる吉野川はしょっちゅう氾濫を起こすため、流域は稲作に向かなかったが、川の運ぶ養分が広がり、藍の栽培に向いた。収穫時期が米より早く、台風前に終わるのも都合がよかった。換金作物として、また納める税として、江戸時代は藩によって藍の栽培が奨励された。

吉野川のそばには、今でも藍商(藍染めの原料を売買する商人)の大きな屋敷や蔵が残っていて、かつての栄華が伝わってくる。美馬市に残る「うだつあがる街並み」は、藍の商家が連なる伝建地区として有名な観光地になっている。

美馬市のうだつのあがる街並み。もと藍商の家。(筆者撮影)

ところが明治になって、日本にも、ドイツで開発された化学染料インディゴピュアが入ってくると一気に広がった。阿波藍の生産のピークは1903(明治36)年。その後、驚くほどの勢いで生産量は急降下し、絣(かすり)など伝統的な染織物の産地を除いて、国内の染めの9割以上は化学染めに席巻
されていったのである。

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プロフィール

甲斐かおり

フリーライター。長崎県生まれ。会社員を経て、2010年に独立。日本各地を取材し、食やものづくり、地域コミュニティ、農業などの分野で昔の日本の暮らしや大量生産大量消費から離れた価値観で生きる人びとの活動、ライフスタイル、人物ルポを雑誌やウェブに寄稿している。Yahoo!ニュース個人「小さな単位から始める、新しいローカル」。ダイヤモンド・オンライン「地方で生きる、ニューノーマルな暮らし方」。主な著書に『ほどよい量をつくる』(インプレス・2019年)『暮らしをつくる~ものづくり作家に学ぶ、これからの生き方』(技術評論社・2017年)

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