ニッポン継ぎ人巡礼 第3回

世代を超えて若者をも魅了する、石見神楽の世界

甲斐かおり

温泉津舞子連中の結成ストーリー②

中学生になった小林さんは、その後の人生に大きく影響を及ぼす社中と出会う。同じ温泉津町内の井田地区で、生まれて初めて見た夜明舞(夜から早朝にかけて一晩かけて行われる舞)。そこへ来ていたのが、隣の江津市の「都治(つち)社中」だった。

30年近く前のこの時の衝撃を、小林さんはつい昨日のことのように話す。

「なんだこれは…!! カッコいい!って。舞にキレがあって、迫力があって、口上に惹きつけられて。太刀合いになっても太刀捌きもスパスパスパスパ決めるし。それが中学生の僕の心にドンピシャにハマりました。その時出ていた人たちが、みんな若い人で。自分と同じくらいの歳か、ちょっと上。なんじゃこれは!!と思うと同時にこういう神楽をやりたい!って」

当時、都治社中は、新しい試みをする革新的で勢いのあるカリスマ集団として界隈では名を馳せていた。舞がうまいのはもちろんのこと、口上には歌舞伎風の抑揚があり、見えの切り方、囃子、衣装、太刀捌きなどすべてが斬新。「魅せる」技が際立っており、若い小林さんたちにとって見たことのない神楽だった。

なかでも、その時に見た「大江山」という演目は、当時代表を努めていた林浩司さんが中心となって都治社中の「大江山」として台本を編纂した創作神楽で、主人公の「源頼光(みなもとのらいこう)」を林さん自らが演じた。その隣で睨みを利かせていた「渡辺綱(わたなべのつな)」が小林さんの心を射抜いた。

「あの役を演じたのはいったい誰だ」。舞台が終わった後、舞台裏を覗き必死で探した。

「あの人だ…!! まさかの茶髪!」

林さんの息子、小林さんより四つ歳上の、当時高校生だった史浩さんだった。

一度か二度見ただけではわからないが、一口に石見神楽といっても社中には流儀があり、それぞれの団体の個性、世界観がある。細かな所作、口上の延べ方、演出が異なり、同じ演目でも舞う人によって芸(演技)も違ってくる。

表立って社中の優劣を競う場やランキングなどはないため外からはわかりづらいが、多くの舞手には心のうちに目指す存在がいる。

「当時の僕らにとって、そうした神楽の先輩はすれ違うだけで興奮する、憧れの存在。一般人にとってのSMAPのキムタクみたいなもんです」

小林さんより10歳上だった先述の大門克典さんも、やはり子どもの頃から大の神楽好きで、中学生になると大田市の社中へ自転車で1時間以上の道のりを通っていた。大門さんも都治社中と、さらに都治が系統を継ぐ浜田の長澤社中のファンだった。

一方、小林さんと同じ中学の一年後輩として入ってきたのが、亀島慎吾さん。やっぱり都治社中が大好きで、小林さんと意気投合して二人で見よう見まねで文化祭では神楽を舞った。

この三人が、温泉津舞子連中結成の中核となる。

温泉津舞子連中の代表、大門克典さん
「塵輪(じんりん)」で神の役を演じた亀島慎吾さん(左)


温泉津舞子連中の結成ストーリー③

高校3年になる年、小林さんは龍御前神社の秋祭りへ亀島さんと共に神楽を見に行った。その時、偶然、隣に立っていたのが大門さんだった。

7年ぶりの再会。「お久しぶりです」から始まって、二人は再び神楽の話で盛り上がる。ついに大門さんは「温泉津でも神楽をやらないか」と小林さんにもちかける。

小林さんは高校3年生、亀島さんが2年生、大門さんはすでに就職していた。

かくして今から24年前。三人の役者が揃い、どんな社中を目指すのか、大門さんの自宅に集まり鍋をつつきながら話し合った。

三人がめざす舞、憧れる社中は共通していた。まずは先述の「都治社中」。そしてその都治が流れを引く、浜田の「長澤社中」。

都治や長澤のような社中をつくりたい。そう志を確認し合った三人は、まず同好会を立ち上げる。

新しく始まった社中が最初に苦労するのは、衣装の調達だ。石見神楽の衣装は、金糸のふんだんに施された刺繍もので、手製なので、一着50〜150万円ほどする。

「はじめはお金もなくて、よその社中にお古を借りに行っていました。遠ければ益田まで片道2時間かけて。若かったから楽しかったですけどね」と大門さんは振り返る。

地元の敬老会で舞うなど地道に活動を続けていたが、活動を開始した年の11月、大阪で行われる「関西ふるさと」に出ることになった。大きな公演としては2回目だった。

「八幡」という新しい演目に挑戦することにしたが、肝心の衣装がない。その時、温泉津の地元企業、瓦業者の森崎窯業所の社長が、自身が寄付をしていた都治社中に、衣装を貸すよう頼んでくれたのだという。

「僕ら三人にとっては、雲の上の存在。憧れの社中です。ほんとに衣装なんて借りられるのか?ってはじめは半信半疑。だけど森崎さんは都治の支援者として親交が深い方でもあるので、先方も断りきれない面もあったんだと思います。衣装を貸すから、一度舞を見せにこいと言われました」(小林)

中学生の頃から憧れていた都治社中。その林さんたちの前で神楽を舞う。それ次第で衣装を貸してもらえるかどうかが決まる。その時の小林さんたちの緊張が伝わってくるようだ。

「ずらーっと都治社中のメンバーに囲まれて。目の前に大江山をやっていた林さん親子ですよ。当時団長の林さんに舞ってみろと言われて八幡を舞って」

江津市の東端にある、都治社中が拠点とする母社「都治神社」

じっと見ていた林さんたちだったが、「まぁ、貸しちゃる」と。さらに「弓をもつのはこのあたりの方がいい」と手ほどきしてくれたのは、小林さんが憧れていた茶髪の先輩、史浩さんだった。

しかも、である。

「何百万円もする衣装なので、ふつうは他の社中に貸したくないはずなんです。激しい舞で破れてもおかしくない。いつも僕らが他から借りていたのは、本番ではもう着ない予備の衣装、いわゆるお古でした。当時、都治社中にも、本番で着る一軍の衣装に加えて、使っていない予備の衣装が何着もあった。なのに林さんは、一軍の衣装、自分たちが本番で着る衣装を貸すと言ってくれたんです」

なぜか。

「お前らは、石見神楽の代表として大阪に行くんだけぇ。恥かかすわけにいかん」と。

その言葉を、当の本人、林さんは覚えていないと笑うが、この言葉でぐっと背筋が伸びたと小林さんは言う。

「同好会なんだからそんな立派な衣装を着んでも、古いのでよかろうってのが普通の感覚です。当時の自分たちの舞はまだ人に見せられるレベルのもんじゃなかったはずで。それを逆に、本物を見せてこいって背中を押された。本気でやらなきゃいけないって気持ちになりました」

ここに、石見神楽の脈々と続いてきた思想、理由がある気がした。

神楽は「自分のもののようで、自分のものではない。代々、脈々と続く万人のもの」という意識。

大きなものを、関わる人たちがみなで支え、分かち、次につなげばいい。あらゆる立場で、それぞれの役割を果たす。その誰もが欠かせない「石見神楽」をまわす一員になる。

それから約20年。同好会は2002年に団体名を「石見神楽温泉津舞子連中」と改名し、現在、団員は33名にまで増えた。小学生、中学生、高校生、大学生、社会人と各世代にメンバーが揃う。毎週土曜日の龍御前神社での夜神楽公演では、冬季(12〜4月)の20公演を受け持ち、町内4地区5か所の秋祭り奉納神楽も行い観客を沸かせている。

ここの子どもたちに「ずっと続けたい?」と聞くと、全員が間髪入れずに頷いた。お父さんやお兄ちゃんが熱心な姿を見て、惹かれるのは当然かもしれない。みな神楽が大好きなのだ。

上演後に観客に挨拶する温泉津舞子連中。舞い手には小学生や中学生も混じる。龍御前神社は広すぎず、観客との距離感もちょうどいい。毎週、観光客でいっぱいになる
温泉街に古くからある神社は雰囲気がある
温泉津はいまだ風情ある街並みが残る温泉街
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プロフィール

甲斐かおり

フリーライター。長崎県生まれ。会社員を経て、2010年に独立。日本各地を取材し、食やものづくり、地域コミュニティ、農業などの分野で昔の日本の暮らしや大量生産大量消費から離れた価値観で生きる人びとの活動、ライフスタイル、人物ルポを雑誌やウェブに寄稿している。Yahoo!ニュース個人「小さな単位から始める、新しいローカル」。ダイヤモンド・オンライン「地方で生きる、ニューノーマルな暮らし方」。主な著書に『ほどよい量をつくる』(インプレス・2019年)『暮らしをつくる~ものづくり作家に学ぶ、これからの生き方』(技術評論社・2017年)

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世代を超えて若者をも魅了する、石見神楽の世界