1 渋い店にひとりでやってくる若者たち
さて、本の内容を見る前に、もう少しだけ、ぼくがいま関心を持っている「食欲」について掘り下げたい。
若い人たちの間にライトな形で「食」を楽しむあり方が広がってきている、そう思い始めたきっかけとして、『孤独のグルメ』というテレビドラマの人気を知ったことがある。『孤独のグルメ』は、テレビ東京が製作し、久住昌之(原作)と谷口ジロー(作画)による同名の漫画作品を原作としたドラマ。2012年から始まり、2020年現在Season 8までが作られ、この数年は毎年年末に「大晦日スペシャル」が放送されるほどの人気を博している。その内容は、個人で輸入雑貨商をしている主人公・井之頭五郎(松重豊)が出先の街で食事をするために飲食店を探し歩き、入った店で何か食べる様子を淡々と描くものだ。
数年前ぼくはこのドラマを知り、しばらくは自分自身の趣味の食べ歩きと重ねながら、ただ内容を楽しんでいたのだが、後から同年代の友人の多くもこのドラマに好感を持っているらしいことに気がつき、意外に思った。というのも、特にグルメではない友人たち、食べ歩きなどをあまりしなそうな人たちまでも、なぜかこのドラマに少なからぬ好意を持っているように見えたからだ。
しかし、よくよく巷を見渡してみると、最近は渋めのそば屋や甘味屋などでも、ひとりで店に入ってきて食べたいものを注文し、黙々と食べて、さっと帰っていく、というような若い人(性別とわず)をけっこう見かけるし、「そば」「パンケーキ」「かき氷」などジャンルをしぼり、それに関連する店だけを集中的に食べ歩くような人も多くなってきている気がする。また、食べ歩きとまでいかなくても、SNSなどで休日に食べたものの写真をアップしたりしている人は多い。そういったことを踏まえると、ドラマ『孤独のグルメ』が人気を得ているのは、必ずしも「グルメ」「美食」の部分からではなくて、食べたいものを誰にも邪魔されず、自分のペースで食べる、というその淡々としたリズムのようなものが支持されているのかもしれないと思えた。
では、なぜライトな食の楽しみ方が過酷な労働環境や「自己実現」からの「避難」だと思えたかというと、ぼくの同世代の日々の暮らしに思いを馳せると、そんな「ひとりで邪魔されず食事をする」という一見なんてことのない行為こそが、いまの若い人たちにとっては、人間らしい時間を過ごせる数少ない、希少なひとときになってしまっている、と感じられるからだ。
ぼくの同世代の人たちはとにかく時間がない。もちろん個人の差はあるが、夜遅くまで残業したり、休日出勤している人はざらにいる。また、給料が低いので、お金もない。さらに、これはぼくが個人的に感じていることだが、いまの若い人たちは、上の世代ほど欲求を表に出さず、「あれがほしい」「これがしたい」ということを主張しない傾向がある。また、欲求を口にするとしても、それは「正社員になりたい」とか「結婚したい」、「売れたい」、「人から認められたい」といった自己実現欲求くらいが関の山で、なんというか、抑圧されて育った、生真面目な世代、という感じがする。
そういう諸々を踏まえた場合、ライトな食べ歩きなどから垣間見える、若い人たちの「これが食べたい」という小さな欲求は、ある意味では、我慢ばかりしているぼくらの世代が例外的に少しだけ自分の「したいこと」を表に出せる瞬間というか、残された唯一の貴重な欲求であるとさえ思えるのだ。だから、「食欲」が重要、などと言うと「なぜ食欲?」と思われるかもしれないが、いまの世の中の一端を捉えるには大事な考え方だとぼくは思っている。
こうした考えを踏まえた上で今回の本を見てみたい。
30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。