はしっこ世界論 「無職」の窓から世界を見る 第3回【後編】

ちゃんと「おりる」思想

飯田朔

 

8 苦痛になることをやらないバランス

 

 伊藤が提案するナリワイという考え方に、ここまで見てきた「生きなおす」という発想とつながるものがあると思えるのは、伊藤が、仕事と生活を切り分ける、仕事は生活を犠牲にしてやるもの、という考え方に問題があることを見抜き、それに疑問を投げかけているからだ。

 伊藤は、ワークライフバランスという言葉があるように、ワーク(仕事)とライフ(生活)を分け、ワーク(仕事)のためにライフ(生活)を犠牲にするのもやむを得ないとする、いまの日本の仕事観に疑問を投げかけ、一方で「これからの仕事は、働くことと生活の充実が一致し、心身ともに健康になる仕事でなければならない」と書いている。

 「生きなおす」とは、社会のレールや他者の価値観に自分を無理に適応させるのではなく、自分の本質の方に軸足を置く考え方だったが、伊藤のナリワイもまた、自分の生活からかけ離れ、激しい競争の場となっている仕事の領域=外側の世界に自分を合わせるのではなく、生活という内側の要素に重点を置く点で、「生きなおす」と似た構えを持っていると思う。

 その上でこの本には、「生きなおす」という考え方を持った個人が、具体的にいまの社会でどう生きていくかを考えるときに、ヒントになる要素があると思う。それは、伊藤が本の要所要所で見せている、独特なバランス感覚だ。伊藤には、社会の競争や理不尽な厳しさといったものから距離を取りつつも、一方で、自分の「好きなこと」や「夢」といったものに対しても距離を取る姿勢があり、印象に残る。

 例えば、伊藤は本の第2章で、「ライフワーク」と「ライスワーク」という言葉を批判する。ライフワークとは、個人が一生をかけてする仕事を意味するが、この場合は「自分が本当にしたいこと」「理想の仕事」のようなニュアンスを持つ言葉として理解してもらいたい。一方ライスワークとは、近年作られた和製英語で、食べるため、日銭を稼ぐための仕事のことだ。両者を組み合わせて使う場合、まずライスワークで稼いで、後で理想の仕事ライフワークをやろう、というような文脈で使われる。

 なぜ伊藤がこれらの言葉を批判するかというと、ライフワークとライスワークとは、仕事を二つの領域に切り離して捉える発想であり、そのうちライスワークという「生活」にかかわる部分を軽視する面があるからだと思う。伊藤は、ライスワークも日々の仕事のうちであり、日銭を得るためでしかない、と高を括ってやっていると、その感覚が自分にしみつき、結局理想の仕事ライフワークをやる感覚を鈍らせると書いている。これはぼくなりの理解だが、伊藤がここで言おうとしているのは、必ずしも理想の仕事の方がエライということではなくて、日々やっている仕事の方を「たかがこんな」と軽く捉え、一方では自分がやりたいことを生活感覚と分離させてしまうことを問題視しているのだと思う。

 この他の箇所でも、伊藤は、ナリワイは単に「自分の好きなことをして自由に暮らす」ことではないと書いているなど(文庫版237頁)、やはり「好きなこと」や「夢」とは距離を置くバランス感覚があるのだが、これがどういう点で「生きなおす」という発想を考える上で重要なものと言えるのか。

 伊藤は、好きなことは、時には「思い込み」であったり、またそうでなければ「黙っててもやってい」たりすることであり、大事なことは、それよりも「健康を失うような苦痛になることをやらないことだ」と書いている。また、「好きなことをやらなければ」という考え方で身動きが取れなくなることについて注意を促している。

 ここからは、ナリワイは単に副業を推奨するような考え方ではなく、先にふれた、ワーク(仕事)のためにライフ(生活)を犠牲にしなければならない、という働き方の歪み、言い換えると生活の軽視を見据え、それへの反論を提示するところに重点があることがわかる。

 ぼくがこうした「好きなこと」よりも「苦痛になることをやらない」に重点を置く伊藤のバランスを重要と思うのは、「生きなおす」という発想を持った人が、社会の提示するレールとは距離を置くとしても、だからといって「ただ自分のしたいことだけをすればいい」とか「夢を追うのが正解」といった考えを持つようになり、結果として専業を目指して疲弊してしまったり、自己啓発や「やりがい搾取」のようなものにからめとられるといった、本末転倒な方向へいかないようにするために役立つと思うからだ。

ナリワイの考え方にそれとなく支えられたスペイン滞在、サラマンカの街並み

 伊藤はこの本の要所要所でナリワイを「地味なやり方」とか「『ハイテンション』ではなく、あくまでじわじわと」とか、「弱いコンセプト」といった抑えた言葉で表現しており、ナリワイと、「自己啓発セミナー」といったものを対比させている。伊藤が「好きなこと」と距離を取るのは、言ってみればいまはその「好きなこと」の中に「ハイテンション」なもの、自己啓発的な何かが混入しやすいから、という面があるからじゃないかと思う。

 この本では、ナリワイの作り方や実例などの具体的な話が書かれつつ、その根底には伊藤が持つ「苦痛になることをやらない」という、すぐれたバランス感覚があり、「生きなおす」考え方を踏まえた人たちが、競争の世界と距離を取り、自分が本来大事にしていくべき要素を見失わないための判断力を補強してくれる側面がある。

 ぼくは、競争的な考え方に巻き込まれないためには、伊藤の語りにあらわれている、次のような仕事に対する「力加減」が重要なものになるだろうと感じる。

 

 私を含めた多くの人にとって「自分もやってて楽しい。世の中にも同じような志向の人がいて、自分の仕事が効果があったり面白いので喜んでもらえる。生活の糧にもなって、自分もやる気も出て仲間も増えるから続けられる」というぐらいがちょうどいいのではないか。

同前237~238頁

 

 ぼく自身も、文章を書いたり、日々を過ごす上で、ナリワイの考え方にそれとなく支えられる面があった。いま思うと、ぼくが3年前スペインに1年間滞在したことも、語学を身につけようとか、絶対移住しようとかいった目的のためではなく、スペインでなら色々なしんどい要素がある東京よりも何か楽な気持ちで暮らせそうだ、という直感による生活に軸足を置いた選択だった。また、いまぼくは、時々記事を書いたりしているわけだが、伊藤の本を読んだことで、文章を書くことも生活の延長線上であり、自分もそこそこ楽しく、他人にも暇つぶしの材料になり、お金も最低限書いた分はもらえる、というくらいでやろう、と思えるようになった。

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 「無職」の窓から世界を見る 第3回【前編】
“祖父の書庫”探検記 第3回  
はしっこ世界論

30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。

プロフィール

飯田朔
塾講師、文筆家。1989年生まれ、東京出身。2012年、早稲田大学文化構想学部の表象・メディア論系を卒業。在学中に一時大学を登校拒否し、フリーペーパー「吉祥寺ダラダラ日記」を制作、中央線沿線のお店で配布。また他学部の文芸評論家の加藤典洋氏のゼミを聴講、批評の勉強をする。同年、映画美学校の「批評家養成ギブス」(第一期)を修了。2017年まで小さな学習塾で講師を続け、2018年から1年間、スペインのサラマンカの語学学校でスペイン語を勉強してきた。
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