現代社会と向き合うためのヒーロー論 第6回

障害、加齢とスーパーヒーロー|「X-MEN」シリーズ『僕のヒーローアカデミア』

河野真太郎

ユダヤ人、黒人、多文化主義

 「X-MEN」シリーズは、2000年公開の『X-メン』に始まり、『デッドプール』や『ニュー・ミュータント』も含めるとこれまで13作が公開されている。

 まず、2000年代の、オリジナル三部作とも言える『X-メン』、『X-MEN2』(2003年)、『X-MEN:ファイナル ディシジョン』(2006年)は、ヒュー・ジャックマン演じるローガン/ウルヴァリンを主人公かつ一種の狂言回しとして、チャールズ・エグゼビア/プロフェッサーXと、エリック・レーンシャー/マグニートーの勢力との抗争を描く(ミュータントたちの多くは本名とヒーロー名を持っているが、以下ではスラッシュで区切った場合には「本名/ヒーロー名」ということであり、以降は基本として本名で呼ぶ)。

 物語の全体は1944年、アウシュヴィッツ収容所で、エリックが金属を操る能力に目覚めるところから始まる。この映画シリーズの世界においては、遺伝子の突然変異によって特異な能力を発現された「ミュータント」たちが存在するのだ。チャールズであればテレパシーと人心の操作、ローガンは肉体の治癒能力である。ローガンは人間によるミュータントの兵器化計画の一環で、骨格にアダマンチウムという世界最硬の金属を注入され、出し入れのできるアダマンチウムの爪を武器として戦うことができる。

 とりあえず第一作の『X-メン』だけでも、この作品が人種・民族差別と障害者差別という二つの問題を重ね合わせて取り扱っていることが分かる。端的に言えばこのシリーズのヒーローたちは、被差別者、マイノリティなのである。

 まずは人種・民族差別について。その点は、先ほど触れた『X-メン』のプロローグでのアウシュヴィッツの場面で予告されている。この場面では、収容所に入れられたユダヤ人であるエリックが、母親から引き離されることに抵抗して初めてその能力を発動し、鉄柵をゆがめる。

 それによってこの作品はミュータントとしての特異性とユダヤ性を結びつける。それだけではない。例えば、初期シリーズではエリックの配下の悪役であったレイヴン/ミスティークは、本来は青い皮膚に赤い髪、黄色い目のミュータントで、何にでも変身できる能力を持っているのだが、彼女のミュータント性は黒人性へと人種化されている。『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』(2011年)で彼女は「ミュータントは誇り(Mutant and proud)」というセリフをくり返す。これはもちろん、ジェームズ・ブラウンの1968年の楽曲「セイ・イット・ラウド、アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウド(Say It Loud – I’m Black and I’m Proud)」のもじりである。

 レイヴンは、本来の見た目のために、ミュータントとしての被差別意識を強く持ちつづける。そんな彼女が自分のミュータント性を肯定するにあたって、黒人性を肯定するジェームズ・ブラウンの有名なフレーズに依拠する。だがそれはレイヴンを演ずるのが白人のレベッカ・ローミン(上記の『ファースト・ジェネレーション』以降はジェニファー・ローレンス)であることを考えると非常に毒のある皮肉である。彼女は変身能力を利用して、「黒人」であることを隠して白人としてパッシングするのだから。

 それはともかくとして、この作品における旧人類とミュータントの関係は、マジョリティ人種とマイノリティ人種の関係の比喩となっている。

 そして、ここでも、前回『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』で論じた「多文化主義」の論理が、正義と悪を規定するために利用されている。つまり(この点は完全には徹底されておらず、『X-メン』ではケリー上院議員というベタな差別者が登場するものの)、善悪の境界線は、マイノリティとマジョリティとの間に引かれるわけではない。そうではなくそれは、「多文化主義・文化相対主義を認める者とそれを認めない者」との間に引かれる。マイノリティであっても、多文化主義の価値を認めない者は悪となる。

 具体的にはそれは、チャールズ/プロフェッサーXとエリック/マグニートーとの間に引かれる線である。エリックは分離主義の人である。彼は人間とミュータントとのあいだに和解不可能な線を引き、分離独立にとどまらず、人類をミュータントへと「進化」させることを目指す。これはミュータントを「劣等人種」とみなすような差別主義の裏返しになっている。彼にとっては、ミュータントこそが人類が目指すべき優等人種なのである。対してチャールズは人間との融和共存を目指す、多文化主義の人である。

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 第5回
現代社会と向き合うためのヒーロー論

MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。

プロフィール

河野真太郎

(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。

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障害、加齢とスーパーヒーロー|「X-MEN」シリーズ『僕のヒーローアカデミア』