「X-MEN」シリーズと能力・個性としての障害
このような「多様性」の物語の出発点がアウシュヴィッツになっていることは、アメリカのリベラリズムの本流の表現である。戦後アメリカの冷戦リベラリズムとその想像力の根源には、ナチスとホロコースト(そしてそれと連続したものとして想像されるソ連の全体主義的政治)の否定と忌避があった(し、今でもある)。
そして、ナチスの標的となった人びとといえば、ユダヤ人やロマ族だけではない。障害者たちもまた、その「安楽死計画」の標的となった。
ミュータントたちのマイノリティ性には、これまた様々な水準で「障害者」のイメージが付与されている。まずは、チャールズ/プロフェッサーXが、歩行ができず車椅子に乗っていることが、それを記号的に象徴している。
そしてより本質的には、ヒーローたちの能力を純然たる能力=健常性(ability)として捉えないことが「X-MEN」シリーズの一大特徴である。「X-MEN」シリーズは、ヒーローたちを、そもそもヒーローとしてではなく、遺伝子の突然変異が起きた少数派として設定している。その能力は、主人公として与えられたものではない。制御できず、他者を傷つけてしまう力を持っている者もいれば、何の役に立つかはにわかに分からない能力を持っている者もいる。また、彼ら/彼女らは正義の味方になるとはまったく保証されていない。実際、シリーズを通して、ヒーローとヴィランはめまぐるしく入れ替わる。
私は、このような構図の背景には、かなり現代的な障害観が働いていると考えている。
1990年代以降の障害学(ディスアビリティ・スタディーズ)においては、障害を「個人/医学モデル」で捉える見方と、「社会モデル」で捉える見方が発達して常識化してきた。
個人/医学モデルは、障害が障害者の身体にあると考える。当たり前だと思われるだろうか。これは、「社会モデル」の考え方からすると当たり前でもなんでもない。社会モデルは、障害が人間ではなく外側の社会の方にあると考える。つまり、例えば道路に段差があって車椅子では乗り越えられないとすると、その場合「障害」は車椅子の使用者にではなく、段差の方にあると考えるわけだ。さらにそれをひっくり返して考えてみよう。もし、道路と歩道の段差が2メートルの社会があるとしたらどうだろうか。そのような社会では今この社会で「健常者」とされる人びとは全員「障害者」になるだろう。
このように、障害は社会によって生み出されており、相対的なものであると考えるのが障害の社会モデルなのである。そして、そのような障害の相対化から出てくる考え方や表現が、例えば障害を持つことをdisabledとは言わず、differently abled(異なる能力を持った)と表現することであるし、また「障害は個性」と表現することである。さらにはそこからは、「あらゆる人は多かれ少なかれ障害者」という考え方も出てくる。極端な線を引けば、あらゆる人は障害者と言えるし、逆に障害者は存在しないとも言えるのだ。
MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。
プロフィール
(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。