現代社会と向き合うためのヒーロー論 第6回

障害、加齢とスーパーヒーロー|「X-MEN」シリーズ『僕のヒーローアカデミア』

河野真太郎

新たな健常者主義とスーパークリップ、そしてポスト障害の世界

 このように、障害の社会モデルは、解放的な理論として提唱されたはずなのであるが、新自由主義の現在においては、能力/非能力の間の線を、新自由主義的な基準で引き直すことに利用されてしまってもいる。これを、ロバート・マクルーアは、『クリップ・セオリー』(2006年、未邦訳)において、「新たな健常者主義」と呼んで批判的に分析している。

 そのような「新たな健常者主義」で生じる人物像のひとつが、「スーパークリップ(supercrip)」というものである。クリップとはcrippled(不具の)の略称で、差別的な言葉であったものが転用されたものだ。スーパークリップとは、ひとつの意味としては必死の努力で障害を乗り越えて活躍する人のこと(パラリンピック選手など)であり、もうひとつの意味は、障害者であるにもかかわらず、もしくは障害者であるがゆえに、常人以上の「能力」を発揮するような人びとのことである。

 それは典型的には、まさに「異なる能力を持った(differently abled)」人物として描かれる。古典的なところでは『レインマン』(1989年)でダスティン・ホフマンが演じるサヴァン症候群のレイモンドのような人物像である。知的障害があるにもかかわらず、いやそれがあるゆえに、常軌を逸した記憶力や認識力、計算力を発揮するのだ。

 スーパークリップは、福祉に頼ることなく、できるだけの努力によって「自立」をしようとする障害者の幻想的な象徴である。それは「新たな健常者主義」における、健常性/障害の線の引き直しのための装置なのだ。

 この辺で「X-MEN」シリーズに戻ると、このシリーズはここまで論じたような能力/非能力(障害)を背景としつつ、典型的にも上記のスーパークリップ的な表象に満ちあふれている。

 その象徴はチャールズ/プロフェッサーXだ。述べた通り、彼は歩行ができず車椅子に乗って登場する。なぜ彼がそのような障害を負ったのかは、若きチャールズとエリックを描く、オリジナル三部作の前日譚である『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』(2011年)(以下『ファースト・ジェネレーション』)で説明される。彼はその結末において、銃弾を脊髄に受けて障害を得るのだ。

 ところが、『ファースト・ジェネレーション』に続く『X-MEN:フューチャー&パスト』(2014年)(以下『フューチャー&パスト』)では、興味深いことが起きている。彼は新薬によって歩行ができるようになっているのだ。しかも、その薬の副作用によってテレパシー能力を失っている。彼はテレパシー能力を使って危機を解決する役割が期待されているのだが、自暴自棄になってそれをしない。だが最終的には薬を手放し、歩く能力と引き換えにテレパシー能力を取り戻して未来を変えるために戦う。

 このように、「健常者」としての能力とされるもの(歩けること)と、テレパシーという特異な能力が表裏一体、というかバーターの関係になっていることは、スーパークリップ的表象の大きな特徴だ。例えば、目が見えない人は聴覚が鋭くなる、といったイメージを考えてみればよい。これは間違ったイメージということではなく、確かに起こることではある。だが問題は、それが「歩けないのと引き換えにテレパシー能力がある」というところまでデフォルメ、もしくは美化される時に何が起きているのか、ということだ。

 そこで起きていることは、彼の能力が、新自由主義的な「新たな健常者主義」の中で、「異なる能力」として捉えられるということである。彼の「障害」はその中ではもはや、健常身体的な、完全な身体を持つヒーロー像を掘り崩すものではなく、むしろそれを新たな時代において補完するものになっている。その新たな時代=新自由主義時代とは、多様性さえも市場原理に取りこみ、富の創出のための資源とするような時代である。

 『フューチャー&パスト』の面白いところは、そのようなチャールズに敵対する悪役がもう一人のスーパークリップであることだ。『フューチャー&パスト』は2023年の「現在」において、対ミュータントの戦闘ロボットであるセンチネルにミュータントたちが追いつめられており、精神だけを過去の自分に送ることができるミュータント能力でローガンが1973年にタイムスリップし、センチネルの開発を止めるという物語である。

 このセンチネルを発明したのは、トラスク博士という人間である。そして、このトラスク博士を演じるのは、小人症で身長132センチのピーター・ディンクレイジなのである。

 「小人症という障害を持ちながらも、人類のゆくえを左右するような発明をなした科学者」というもう一人のスーパークリップがチャールズらのミュータントというスーパークリップたちと鏡像のように対峙する世界。これを私は「ポスト障害」の世界と名付けたい。

 ポスト障害とはつまり、健常/障害もしくは能力/非能力のあいだの境界線が新自由主義的な就労可能性の基準によって引き直された「新たな健常者主義」の時代であるし、社会モデルによって障害が相対化され、誰もが多かれ少なかれ障害者であり、その限りにおいて誰も障害者ではないような世界である。それを表現するのに、ディンクレイジという俳優は絶妙なのである。彼は「善良なる無垢な障害者」のイメージを打ち破り、「健常者」に劣らぬ能力と悪辣さを備えたキャラクター性をかもし出している(彼が演じた『ゲーム・オブ・スローンズ』のティリオン・ラニスター役もまさにそのような役どころである)。

 そのようなディンクレイジの演じるトラスク博士は、実のところ「悪役」ではない。この作品には絶対的ヴィランは存在しないのだ。存在するとすれば敵は「歴史」であり、(少なくともミュータントたちの)歴史の終わりである。つまるところ、スーパーヒーローに終わりがあってはならない(フランチャイズを継続するという商業的な意味も含めて)。『フューチャー&パスト』は障害のモチーフを導入するが、スーパークリップたちの戦いはヒーローの存在する歴史の終わりとの戦いなのであり、障害は結局、完全無欠のヒーローの永続性を補完するために取り込みを受けているのだ。

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 第5回
現代社会と向き合うためのヒーロー論

MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。

プロフィール

河野真太郎

(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。

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障害、加齢とスーパーヒーロー|「X-MEN」シリーズ『僕のヒーローアカデミア』