障害の社会モデル、『ヒロアカ』、新自由主義
「障害は個性」といえば、拙著『新しい声を聞くぼくたち』(講談社、2022年)で論じた通り、日本の漫画・アニメの『僕のヒーローアカデミア』(以下『ヒロアカ』)は、「X-MEN」シリーズ風の突然変異的能力を「個性」と呼ぶ。この作品でも、「能力」がまさに「個性」と呼ばれることで相対化されるのだ。ただし面白いのは、『ヒロアカ』の世界においては、能力=個性を持たない人間(「通常」の人間)の方がマイノリティになっているという点であるが。
このように能力と障害(つまりabilityとdisability)を相対化することは、場合によっては解放的たりうる。それは障害者をゲットー化して社会から遠ざけ、隔離するような抑圧から障害者を解き放つからである。
だがそれは、あらゆる歴史的文脈で解放的たりうるわけではない。とりわけ、かつての福祉国家体制が遠い過去となり、新自由主義時代が数十年続いた現在においては、解放的ではなくなっている。
ここまで述べた通り、健常性と障害、または能力と非能力(ability/disability)のあいだの線引きは歴史や社会によって変化していく。福祉国家時代に引かれていたその線引きは、場合によっては(例えばハンセン病患者の非人道的な隔離のように)障害者を排除抑圧するものだった。その場合、障害者の解放運動とは、「脱施設化」の運動となった。隔離され抑圧された障害者を社会へと「復帰」させる運動となったのである。
新自由主義時代に何が起きただろうか。その「脱施設化」を、マイノリティ運動の側ではなく、新自由主義の権力側が押し進めるということが起きたのである。新自由主義が「小さな政府」を標榜し、福祉を切りつめてそれを市場の手に委ねることを金科玉条としたため、それは当然のなりゆきだった。
その時、健常性と障害、能力と非能力との間の上記の線が、引き直されたのである。脱福祉、市場化、個人責任化の流れの中では、就労という名の社会復帰が推奨される。平たく言えば、かつて障害者とされた人たちも、福祉に頼るのではなく、それぞれの能力をもって就労しなさいという圧力が高まったのだ。
だとすれば、『ヒロアカ』においてヒーローが「職業」となっていることは当然の流れなのだろう。この作品の「ヒーロー」たちの「個性=能力」とは、しかるべきヒーロー事務所に所属し、メディア化もされたヒーローとして就労できることなのである。
MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。
プロフィール
(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。