現代社会と向き合うためのヒーロー論 第6回

障害、加齢とスーパーヒーロー|「X-MEN」シリーズ『僕のヒーローアカデミア』

河野真太郎

『LOGAN/ローガン』とポストフェミニズムとその向こう側

 だが、スーパーヒーローでさえも終わるし、フランチャイズも終わらないわけにはいかない。これは、どんな人間であっても始まりと終わりがあり、その始まりと終わりにおいては他者への依存状態に陥ることが避けられないという事実と平行関係にあるようだ。もちろんそんな冷徹な事実からは目をそらすという選択肢もある。だがそれから目をそらさなかった作品が『LOGAN/ローガン』(2017年)であった。私はこの作品をシリーズ中の最高傑作だと断言したい。条件付きで。

 2029年。もはや新たなミュータントが生まれなくなった世界。ローガンは、体内のアダマンチウムの影響で治癒能力を蝕まれ、一言で言えば「老化」が進んでいる(視力も衰えており、さながら老眼である)。彼はリムジンの運転手として働き、メキシコ国境の廃工場で、年老いたチャールズ/プロフェッサーXの介護をして暮らしている。チャールズはアルツハイマー病を患って、テレパシー能力をコントロールできなくなり、薬に頼って能力の暴走を抑えている。老老介護の厳しい現実が描かれる。

 前節まで述べたように、「X-MEN」シリーズでは障害が健常性、ヒーローの完全無欠性を掘り崩すのではなく補完することに奉仕していた。しかしこの作品における「老い」は絶対的である。それは不可逆的にローガンとチャールズの時計を、終わりに向けて進めている。

 この設定がすでに、これまでの「X-MEN」シリーズの前提を崩壊させているし、より広くはスーパーヒーローものの前提を批判もしている。ヒーローも根本的な意味で傷つくし、老いるし、滅びる存在なのである。しかもローガンとチャールズに輝かしい人生を送ってきた満足などというものは小指の先ほどもない。彼らの人生には敗北と喪失と後悔しかない。だが、そのようなものになることから逃れられる人生などあるのだろうか? どれだけ成功しているように見える人生でも、結局は全てを奪われて終わるしかない。そのような鬱々とした世界観が、この作品を覆っている。

 だが当然のことながら、二人が年老いて死ぬだけでは物語にならない。ローガンは、兵器研究所で彼の遺伝子から生み出された、彼と同タイプのミュータントであるローラ/X-23を、その研究所から逃走したミュータントの子供たちの作ったコロニーに送り届けることになるのだ。ローラは11歳の少女であるが、ローガンと同様にアダマンチウムの爪で凶暴に戦う。だが、彼女は次第に心を開き、人の心を学び、ローガンを父と慕うまでになる。

 失うことしか知らなかったローガンの人生の終わりに、ローラという擬似的な娘が登場する。そして彼女は擬似的な娘であることをやめて、最後には真の娘となるし、ローガンは家族がいること、父であることの「感覚」を最後の瞬間に味わってこの世を去る。何もなかった人生に、その一瞬だけが与えられる。私はこの救いの物語をにわかには否定できない。

 だが確かに、この作品には「ポストフェミニズム」的な部分があることは指摘しておくべきではある。つまり、ローラとローガンの組み合わせは、新たな戦う女性と、その女性の誕生と成長を手助けする「助力者」としての男性の組み合わせなのである。これが、抜きん出た能力を持った女性像が盛んに表象され、その一方で従属化した男性はそのような女性の「助力者」となることで、じつは「新たな男性」の地位をかろうじて保存するような、ポストフェミニズム的な現在の典型であることは、拙著『戦う姫、働く少女』(堀之内出版、2017年)と『新しい声を聞くぼくたち』で論じた。

 例えば『風の谷のナウシカ』のナウシカに対するアスベルやユパ、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』のレイに対するフィン、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のフュリオサに対するマックス、『ターミネーター:ニュー・フェイト』のダニーに対するT-800……枚挙にいとまがない。考えてみれば、マッチョで一匹狼的なキャラクターに見えるローガンも、シリーズの第一作『X-メン』からじつは助力者男性であった。彼は、触れる者からエネルギーやミュータント能力を吸い取るマリー/ローグにその能力を貸して、命を賭して助ける。

 そしてポストフェミニズムの現在とは、私がポスト障害の現在として特徴づけた新自由主義の現在にほかならない。

 だがその一方でやはり、『LOGAN/ローガン』には「X-MEN」シリーズが依拠してきたスーパークリップ的なもの、そして「新たな健常者主義」への批判が込められていると読むことができるだろう。それは、人間の根本的な脆弱性と相互依存性を、年老い障害を抱えるスーパーヒーローの姿を介して伝えている。

 『LOGAN/ローガン』が公開された直後には、ローラを主人公とした続編もしくはスピンオフがささやかれたし、監督のジェームズ・マンゴールドは続編をまだ諦めてはいないと発言している。だが、非常に不適切かもしれないことを述べるなら、『LOGAN/ローガン』が上記のようなポストフェミニズム的物語の紋切り型で終わらないためには、続編はない方がいいのではないかと感じている。乱暴な言い方をすれば、『LOGAN/ローガン』がヒーローの、そして人間の脆弱性と根本的相互依存性に手を伸ばした名作であり続けるためには、フランチャイズの存続のために障害者や女性といったマイノリティを「取り込んで」いく、という未来(続編)はない方がいいと思うのだ。(つづく)

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 第5回
現代社会と向き合うためのヒーロー論

MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。

プロフィール

河野真太郎

(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。

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障害、加齢とスーパーヒーロー|「X-MEN」シリーズ『僕のヒーローアカデミア』