多様性の時代に「悪」はどこにいるのか?|『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』「アベンジャーズ」シリーズ『エターナルズ』
「ブラックパンサー」シリーズの多様性と多文化主義
マーベル映画の最新作『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』(以下『ワカンダ・フォーエバー』)が11月11日に封切られた。
前作『ブラックパンサー』はアフリカ系アメリカ人が監督と主演で、黒人による黒人のための表象をしたということで評価が高かったのだが、続編を製作する前に主演のチャドウィック・ボーズマンが病に倒れたという事情もあり、主人公の座を引き継いだのは女性のレティーシャ・ライトとなった。アフリカ系からさらに女性へ、というマイノリティ表象の進展があったわけである(以下、『ワカンダ・フォーエバー』については最新作なのでできるだけ内容は伏せて書くが、最低限のほのめかしはするので注意されたい)。
この「ブラックパンサー」シリーズの二作に共通する基本的なテーマは、「多文化共生」である。
『ブラックパンサー』では、世界の同胞たち(黒人たち)の蜂起を目指すエリック・キルモンガーの「野望」を主人公のティ・チャラ/ブラックパンサーが止めることが主題となる。一方で、『ワカンダ・フォーエバー』は、海の王国タロカンとワカンダ王国との、いわばマイノリティ同士の「内戦」が主題になる。タロカンの王ネイモアが白人世界との対決を厭わないのに対して、より融和的な姿勢のワカンダとの間に内戦が起きるのである。
いずれの作品も、白人世界とワカンダ王国とのあいだの対決ではなく融和が目指される。言い換えれば安定した「多文化共生的秩序」が目指されるのだ。そして、ヴィランは、(白人ではなく)そのリベラリズム的秩序を否定するキルモンガーやネイモアとなる。
近年、「多様性」のかけ声はハリウッド映画をその内容と製作プロセスの両面から大きく変えてきている。「ブラックパンサー」シリーズは、その流れの中で民族の多様性を主題化し、『ワカンダ・フォーエバー』はさらに女性を主人公とすることで性の多様性も持ちこんだ。だがそこでは、マイノリティ的アンデンティティを持つ人びとが一致団結してマジョリティの秩序を転覆するということは否定される。あくまで「多様な価値観の共生」が目指される。
大いに結構、と思われるだろうか。だが、ここには二つの問題がある。
ひとつは、そのようにフィクションで表現される多文化共生秩序は、現実の権力関係の中で抑圧された人びとの経験を抹消するかもしれないということだ。簡単に言えば、平等な多文化の共存のヴィジョンは、マジョリティ(西洋白人)の視点から見た都合のよい多文化秩序かもしれない(また、それはマイノリティの内部での差異(経済的な階級の違いなど)を覆い隠してしまう可能性もある)。
もうひとつの、今回論じていきたいテーマは、ヒーロー物語の根幹に関わる問題だ。多文化主義とは、ある種の価値の相対化である。つまり、それまでは「善・悪」という価値づけをされてきたものも、平坦な「差異」にしてしまう可能性がある。
そのような価値の相対化と「悪の消失」に対してこの作品は語りかける。すなわち、「確かに多文化主義は価値の優越を否定し、水平な差異だけでできた世界観を肯定する。その限りで悪は存在しない。──だが、悪は存在する。唯一の悪は、多文化主義=価値の相対主義を否定する者である。」というわけで、多文化共生そのものの価値を否定する者たち(エリック・キルモンガーとネイモア)が、かろうじて悪を表現できるのだ。
MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。
プロフィール
(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。