被爆者の子どもに生まれて ルポ 被爆二世 第1回

私にばっかり背負わせないで

小山 美砂(こやま みさ)

折り鶴バッジ、学習会……父の言う通りに動いた少女時代

 典子さんの誕生は、父にも変化をもたらしたようだ。生まれた時のことについて、こうつづっていた。

《爆心地より至近距離(一・二キロメートル)の被爆、放射線量を多量に浴びて、果たして二世は異状はないだろうか。生まれるまで、人知れず悩んだ。誰とも話が出来なかった。しかし助かった。これから安心と自信がついた》 

 背中を押された秀夫さんは、授業やホームルームで、機会を見つけては被爆体験を語るようになった。特に、静岡県焼津港所属のマグロ漁船「第五福竜丸」がアメリカの水爆実験で被ばくした事件(1954年3月1日)の後は、ますます熱がこもった。生徒からは「原爆さん」、略して「バクさん」とあだ名をつけられるほどだった。

=筆者撮影

 秀夫さんは1959年7月、「静岡県原水爆被害者の会」を結成。健康や生活の実態を調べて「静岡県被爆者ニュース」を発行するなど、日夜、休日を問わずに働いた。典子さんは、「自宅が事務所だったのでお客さんはよく来たし、家族で夕飯をとっている時にも電話が鳴るし父も出る。母も、文句を言いませんでしたよ」と振り返る。秀夫さんは自身も慢性肝炎や胃潰瘍の他、39歳までにすべての歯が抜けるといった体調不良に「原爆後遺症ではないか」との不安を覚えながらも、国会陳情のためたびたび上京するなど、仲間たちの生活改善のために働いた。

 会の結成は、被爆者への医療給付を初めて定めた原爆医療法の施行からわずか2年後だ。被爆者運動の草創期に精力的な活動をくり出した秀夫さん。典子さんの成長も、父の活動とともにあった。

「父は家族にも、原爆のことを教えようとしたの。2人の妹は怖がって避けたけど、私は違ったのね。小学生の時、原爆で亡くなった少女のスライドを『学校でみんなと見るように』と言われたら私主催で上映会をしたし、『折り鶴のバッジを持っていきなさい』と言われたら筆箱の中に入れて行った。父はそういうことを気軽に言ったし、私も素直なもんだから言うことをよく聞いたよ」

=2023年7月29日、静岡県磐田市で筆者撮影

 高校では、修学旅行で広島に行くことになった。父に「事前の学習会はあるのか?」と聞かれたので、担任に開催を申し入れた。しかし、「僕は被爆者じゃないので、あなたのお父さんのようにはできません」と、断られてしまった。拒絶されたような気がした典子さんは、修学旅行へ行くこともやめてしまう。

 学校があった地域も浜松大空襲の被害にあい、校庭には防空壕が残されていた。それでも、誰も話題にはしなかったし、平和学習も行われなかった。典子さんは友人に「私の父は被爆者なんだよ」と打ち明けることもできず、卒業式には悔し涙をぽろぽろこぼした。

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被爆者の子どもに生まれて ルポ 被爆二世

広島・長崎に投下された原子爆弾の被害者を親にもつ「被爆二世」。彼らの存在は人間が原爆を生き延び、命をつなげた証でもある。終戦から80年を目前とする今、その一人ひとりの話に耳を傾け、被爆二世“自身”が生きた戦後に焦点をあてる。気鋭のジャーナリスト、小山美砂による渾身の最新ルポ!

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「黒い雨」訴訟

プロフィール

小山 美砂(こやま みさ)

ジャーナリスト

1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。

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