「戦争の話をするのは常日頃」の家庭で育った
まずは父・秀夫さんの被爆体験から伝えたい。最近はその内容を集会などで伝承する活動もする典子さんの話と本人の手記『平和を求めて五十周年』によると、次の通りだ。
秀夫さんは1923年、11人兄弟の三男として静岡県浜松市に生まれた。戦争が始まると陸軍に召集され、フィリピンの首都・マニラで軍用道路の建設に従事するなどした。戦争末期には武器の講習会に参加するため、広島に行くよう命じられる。本土決戦の可能性が高まる中、棒の先に円錐型の爆雷をつけた兵器で戦車に対抗するべく、その使い方を学ぶためだった。1945年8月6日午前2時ごろ、列車で広島にたどり着いた。
仮眠をとって朝を迎えると、兵器部のあった広島城に向かった。爆雷が並ぶ室内で、仲間と談笑していた時のことだ。手記にはこう記されている。
《午前八時十五分、突然右後方より、マグネシウムを燃やしたような閃光がしたかと思う瞬間、轟然たる爆裂音(中略)と同時に私の身体は入口より室外へ二間程飛ばされて気を失ってしまった》
気が付くと、「生地獄へ来たのか、想像もつかない光景」が広がっていた。煙やほこりが立ち込め、柱の下敷きとなった仲間は圧死していた。秀夫さんはベニヤ板を払いのけて脱出し、火災が広がる中を京橋川へ逃れた。ある人は力尽きて倒れ、川へ飛び込んだ人は流されてしまった。
そして敗戦後すぐ、体に異変が現れ始める。急激に体重が減って髪の毛は抜け、歯ぐきから出血した。39度近い高熱を出した9月6日、松江陸軍病院に入院した。この日、東京都内では、原爆開発計画の副責任者だった米陸軍のトーマス・ファーレル准将が「広島・長崎では原爆症で死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬現在において原爆放射能のため苦しんでいるものは皆無だ」と発表している。後年、この発表を知った秀夫さんは「そんな馬鹿なことがあるか」と繰り返し憤ったという。
年末、秀夫さんは回復を待たずに退院。陸軍の解体によって病院が国立となり、以降は医療費が請求されるためだった。白い病衣のまま列車に乗り、浜松大空襲で家を失った家族と疎開先で合流。翌年、故郷の浜松市でバラック小屋から再出発し、高校教師として働いた。そして、後に典子さんの母親となる女性、春子さんと出会う。彼女は空襲で自分の家が焼けたにも関わらず、類焼を防ごうと必死に働いたと知り、秀夫さんの方が先に惚れてしまった。
そして1951年3月、典子さんが生まれる。やがて2人の妹にも恵まれた。杉山家では、「戦争の話をするのは常日頃」だったそうだ。
「親戚が集まると父は広島の話をして、周りは浜松大空襲がひどかったと話をする。私も知りたがりだったから、嫌がらずに聞くもんでね。いつも喋っていたから、初めて父から被爆証言を聞いたのはいつ、なんていうことはわからないくらいだった」
広島・長崎に投下された原子爆弾の被害者を親にもつ「被爆二世」。彼らの存在は人間が原爆を生き延び、命をつなげた証でもある。終戦から80年を目前とする今、その一人ひとりの話に耳を傾け、被爆二世“自身”が生きた戦後に焦点をあてる。気鋭のジャーナリスト、小山美砂による渾身の最新ルポ!
プロフィール
ジャーナリスト
1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。