思いの強さゆえ 「重荷」にも感じられた父の言葉
被爆者運動を推し進める父のもとに生まれ、他の子どもよりも強く反戦・反核の意志を育んできた典子さん。周囲との深いギャップを感じながら成長する一方で、当時を振り返ると「自分の足で行動できていない」感覚があったという。父に言われて何か学校でアクションすることには「慣れていた」が、いつもどこかで父の影がちらついていた。30代を過ぎてからのことになるが、「私にばっかり背負わせないで」と反発したこともある。それは、母が糖尿病を患って介護が必要となる中、父が運動との両立を求めたことに対してだった。「両方は無理だよ」と突き放し、継続できなかった活動もあるという。
被爆者の父は会を組織し、仲間を助け、原水爆の禁止を求める運動を推し進めた。父を敬った典子さんも自身の中で平和への思いを育み、父の言葉をよく聞いて行動した。だが、それが時に「重荷」と感じられたこともまた事実なのだろう。
被爆者として核廃絶を強く願い、生涯を通して行動を続けた秀夫さんには心から敬意を表したい。何より彼は原爆の被害者で、秀夫さんが彼女に期待するのも、その思いの強さゆえだ。私は生前の秀夫さんに会うことは叶わなかったが、我が子に知ってもらいたい、体験や運動を引き継いでもらいたいという彼の気持ちが伝わってくる。そして、典子さんも同じ思いを共有しながら隣で歩んできた。
私たちが忘れてはいけないのは、原爆による被害がそれほどまでに大きかったということだ。父が「バクさん」と呼ばれるほど運動にのめり込んだのも、娘の生き方に影響するほどの力を持ちえたのも、それゆえだ。秀夫さんは原爆の「被害者」に留まるのではなく、むしろその経験を原水爆禁止の声を大きく上げるための力とした。典子さんが反発しながらも父を支え、晩年までともに広島を訪ね続けたのは、その思いを受け継いだからこそだ。被爆者の思いを途絶えさせない生き方を選んだ彼女のこともまた、私は尊敬している。
幼少期から核兵器の非人道性を身近に知り、その被害者の思いを感じて育ってきた。被爆二世だけが被爆体験の伝承の担い手だとは思わないが、被爆者の子どもとして生まれ育ったからこその体験や抱いた思い、そのフィルターを通して見つめてきた親の姿がある。そこには被爆二世が語るからこその独自性があるはずだ、と私は思う。
広島・長崎に投下された原子爆弾の被害者を親にもつ「被爆二世」。彼らの存在は人間が原爆を生き延び、命をつなげた証でもある。終戦から80年を目前とする今、その一人ひとりの話に耳を傾け、被爆二世“自身”が生きた戦後に焦点をあてる。気鋭のジャーナリスト、小山美砂による渾身の最新ルポ!
プロフィール
ジャーナリスト
1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。