「お前、被爆者の子どもじゃないんか」 差別と対峙する大阪で芽生えた自覚
1955年に八代市で生まれた宮地さんは、「原爆のげの字も知らないで育ちました」と言う。自身を「浮草」と表現する宮地さんは、中学卒業後に熊本市内の高校へ進学。かつての母と同じく親元を離れて生活するようになり、その後は大阪大学へ進んだ。理学部で物理化学を学び、研究者になるつもりだった。
しかし、予期せぬ方向に進むのもまた人生だろう。入学してまもなく、部落解放運動と出会って衝撃を受ける。ちょうど、「狭山事件」が大きな社会問題となっていた頃だ。これは、1963年5月に女子高生が殺害され、被差別部落出身の石川一雄さんが罪に問われた事件である。石川さんは64年の控訴審以降、警察によって自白を強要されたとして「冤罪」だと訴え続けており、宮地さんが入学した1974年は秋に東京高裁判決の言い渡しを控えていた。石川さんの無実と即時釈放を訴えて活動する学生たちに出会い、その差別と闘う姿勢に感銘を受けた。
しかも、学内では寮費の値上げに反対した学生たちによるストライキが実施されていた。勉強しようと意気込んで大阪まで来たのに、そもそも受けられる授業がない。足は自然と運動へ向き、部落差別について学び始める。
ある日、仲間から声をかけられた。「お前、被爆者の子どもじゃないんか。被爆二世の会ができるらしいから、行ってこいよ」
そういえば自分も「被爆二世」だったと気が付いた。母が被爆者だという事実は、頭では理解している。しかし、治子さんは自分だけが生き残った申し訳なさを抱えて生きており、「被爆者」としてのアイデンティティが強いわけではない。それに、「生きとるだけでありがたか。これ以上んこつは死んだ人に申し訳なか」と言って、乳がんを患うまで被爆者健康手帳を取得することさえしなかった。熊本県内で生まれ育った宮地さんにとっても平和運動は縁遠く、被爆者の子どもとしての実感を持つことはこれまでになかったのだ。大阪で声をかけられて初めて自覚し、発足に向けて準備を進めていた「大阪被爆二世の会(準備会)」に加わる。
「部落解放運動の盛り上がりの中で、色々な社会問題に対してそれぞれの立場から差別と闘っていこう、という動きがありました。そういう意識を持つ学生たちの中で、被爆二世の問題もせなあかんのちゃうんか、と。そういう感覚で大阪の被爆二世運動はうまれていったのではないかと思います」
当時、被爆二世による組織はまだ数が少なく、全国的な運動も展開されていなかった。この時期に大阪でいち早く独自の動きが生まれたのは、部落解放運動を主軸に、さまざまな社会課題に向き合う動きが背景にあったようだ。
広島・長崎に投下された原子爆弾の被害者を親にもつ「被爆二世」。彼らの存在は人間が原爆を生き延び、命をつなげた証でもある。終戦から80年を目前とする今、その一人ひとりの話に耳を傾け、被爆二世“自身”が生きた戦後に焦点をあてる。気鋭のジャーナリスト、小山美砂による渾身の最新ルポ!
プロフィール
ジャーナリスト
1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。