一六世紀と二〇世紀の庭を同時に見られる
瑠璃光寺の北東に常栄寺というお寺があります。ここでもまた、大内家の時代に栄えた「西の京」の名残を見ることができます。大内家の庇護を受けた僧、雪舟が作庭したとされる庭園です。
雪舟作といわれる庭園は日本各地に見られます。山口、島根県だけで少なくとも五、六ヶ所ありますが、その真偽は定かではありません。常栄寺の庭は広大で、つくりもダイナミック。「伝・雪舟」の庭の中では、最も芸術性の高い庭といえます。
庭には「立石」という角張った形状の石が多く置かれていて、荒々しい力強さが目を惹きます。立石は室町時代の庭園に見られる特徴の一つですが、さらにもう一つの特徴が、この石の置き方です。小高い山の中腹から駆け下りるように置かれた石は、滝の流れを表し、麓の池の手前まで来ると今度は陸へと広がっていきます。
立石の持つエネルギーや滝の流れなど、常栄寺の庭を見渡してみると、庭に山水画を展開しているようで、雪舟の庭ということが納得できる気がしました。実際、ここを見た後に、あらためて雪舟の絵を見ると、山の形などもこの庭と通じているように感じました。
雪舟庭は境内の奥側、本堂を抜けた先に広がっていましたが、本堂の手前側には、20世紀の作庭家である重森三玲(しげもりみれい)が晩年に手がけた「南溟庭(なんめいてい)」という庭園がありました。三玲の庭では、雪舟が明に渡った時の海を表したという白砂のところどころから、石が突き出ていました。そういえば、私がこれまでに見てきた三玲の庭園にも、このような「立石」は頻繁に用いられていました。どうやら三玲は常楽寺の雪舟庭、その室町様式から大きな影響を受けたようです。しかし三玲の庭には、雪舟庭のワイルドさとは対照的な、整然と計算された雰囲気を感じました。
本堂を挟んだ両側の庭で、一六世紀と二〇世紀と、四百年の間を置いた二つの時代の姿に触れることができました。これは、現代を生きる者の冥利だといえるでしょう。
小さな集落にも「文化」が残っている
萩市街を目指して常栄寺から日本海側へ北上すると、道中、歴史地区に指定された「佐々並市(ささなみいち)」という、赤い石州瓦(せきしゅうかわら)の屋根が連なる小さな集落を見つけました。このような集落は日本各地にありますが、長州のような歴史のある文化圏では、その趣が特に色濃く残っています。
今回の旅の主目的は、萩の城下町を見ることですが、江戸時代の藩制が及ぼした文化は、決して市街地だけに限られていたわけではありません。往時の文化は、周辺の農地や山間部、隣国との境にも、様々な形で育まれていました。たとえば家の間取り、屋根の瓦の色、集落形成のあり方、お寺や神社など、それぞれの地域が、その地特有のローカルな味わいを有しています。
とりわけ地方の土地や町、集落は、人口密度の高い京都や江戸と物理的な距離があったので、戦、地震、火災などの影響から逃れ、中央には残らなかった歴史的な寺院や文化遺跡が現在に伝わることになりました。瑠璃光寺の五重塔も、常栄寺の庭園も、佐々並市の集落も、そのような場所の一つです。
私は個人的に佐々並市のような集落が好きですので、本当はもっとゆっくりと散策したかったのですが、高台から町並みを眺める程度に留めて先を急ぎました。
著名な観光地から一歩脇に入った、知る人ぞ知る隠れた場所には、秘められた魅力が残されている。東洋文化研究者アレックス・カーが、知られざるスポットを案内する「巡礼」の旅が始まる。