参道は「哲学の道」である
東光寺に入ってみましょう。境内は参道に沿って一本の軸状に形成されています。総門から先へ進むと、長い参道の途中に立派な三門が立ち、さらに奥にある大雄宝殿が戸口から姿をのぞかせています。
私にとって黄檗宗の寺院を訪ねる大きな楽しみは、扁額を鑑賞することです。東光寺の三門には、黄檗三筆の一人「即非(そくひ)」による「解脱門」の書、大雄宝殿には、隠元とともに日本へ渡ってきた萬福寺二代目管長、木庵の書がかけられていました。
さらにありがたいことに、東光寺では参道脇に植えられた松の老木が、黄檗寺院の奥深さを伝えていました。
松の木は禅宗全般に重要な存在であり、黄檗においては二千五百年以上前に遡った孔子の故郷「曲阜(きょくふ)」の森を再現しているといわれています。孔子は、松林の中を弟子とともに歩きながら哲学について語ったそうですが、黄檗宗の参道は、この「哲学の道」を意味しているのです。
かつては瑞龍寺にも立派な松がありましたが、一九八五年から九六年にかけて大工事を行った際に、それら一切を伐採し、芝生と白砂に変えてしまいました。建物を障害なく、はっきり見せることと、近年の禅的感覚であるミニマリズムを重視したようです。これによって瑞龍寺の禅と建物は立派に残りました。しかし、哲学は消えてしまいました。幸い東光寺では、木々に囲まれた参道を歩きながら物思いに耽ることができます。
奥に進んで行くと、大雄宝殿裏手に幕末に亡くなった長州藩の尊王攘夷派「四大夫十一烈士(したいふじゅういちれっし)」の墓があります。そこからさらに進み、小さな門を抜けると、驚きの光景が目に飛び込んできました。三方向きに分岐した参道の足元に、幾何学模様を描くように小石と砂利が敷かれ、緩やかな段状になった参道に沿って、五百基以上の石灯籠が置かれていたのです。
階段を越えた先には五つの鳥居が横並びに設置され、その背後の一段上がった場所に、歴代の毛利家当主と夫人の廟所である石塔十基が並んでいました。鳥居の手前から横に逸れていくように続いた小道の先には、背の低い鳥居のようなものが立ち、背後に側室など近親者の墓碑が二十基以上置かれていました。
そもそも鳥居と墓碑という組み合わせは、極めて珍しいものです。この廟所がつくられた年代は明記されていませんでしたが、スケール感や幾何学的なデッサンから、江戸ではなく明治につくられたものではないかと、私は推測しています。
わざわざ鳥居を設けたことは、廃仏毀釈後に「国家神道」が普及した時代の名残かもしれません。もちろん、もっと以前の神仏習合が一般的だった時代には、同様の事例も見られます。たとえば日光東照宮には、鳥居と社殿の先に、奥宮と呼ばれる場所があり、家康公のお骨を収めた宝塔が立てられています。
著名な観光地から一歩脇に入った、知る人ぞ知る隠れた場所には、秘められた魅力が残されている。東洋文化研究者アレックス・カーが、知られざるスポットを案内する「巡礼」の旅が始まる。