黄檗宗(おうばくしゅう)は江戸時代の革新思想だった
そこから萩の市街地へは、車で三十分ほどです。城下町に入る前に、市街地の東側にある「東光寺(とうこうじ)」というお寺へ立ち寄ることにしました。このお寺の境内には、江戸時代に長州藩を支えてきた毛利家の廟所があると聞いていたからです。
入り口の総門に立った時に、ここが黄檗宗の寺院だと、すぐにわかりました。朱色に塗られた門、中央部を高くして、左右を一段下げた独特なつくりの屋根。その上部に鯱のような姿をした彫刻。これは「摩伽藍(まから)」という架空の生き物で、よく見るとヒレと足を持っています。この門の構造は、中華街で見かける「牌楼(ぱいろう)」(扉のない開放門)と同じです。門にかけられた扁額には、丸みのある字で「護国山」と書かれていました。牌楼と扁額は、どちらも黄檗宗の特徴で、京都の宇治にある有名な「黄檗山萬福寺」も同じ様式です。
ここで黄檗宗のことに触れると、江戸時代に新しく認められた唯一の宗教でした。江戸前期、中国で明が滅びて清になったころ、カリスマ性を帯びた禅僧、隠元(いんげん)禅師が日本に渡ってきました。江戸へ招かれた隠元は、当時十八歳だった第四代将軍の徳川家綱に謁見しました。深く感銘を受けた将軍は、隠元に帰依して、宇治に萬福寺を開創することを許可しました。
その後、一八世紀半ばまで約百年にわたり、萬福寺の住職は中国の僧が務めました。彼らは禅宗の儀式、思想、建築、声明(音楽)、そして特に書の分野で、日本に大きな影響を与えます。国風化していた臨済系の禅宗と比べ、黄檗宗は革新的な思想であったことと、将軍家の支援を受けられたという二つの理由から、各藩の大名が自分たちの菩提寺として黄檗宗の寺院を建て、境内に大名家の廟所をつくることが、一種の流行となりました。
たとえば加賀藩前田利長公の菩提寺として、現在の富山県高岡市に建てられた国宝の「瑞龍寺(ずいりゅうじ)」には、隠元をはじめ、弟子の木庵(もくあん)や悦山(えっさん)など中国僧が揮毫した扁額がかけられています。瑞龍寺には、石灯籠が並ぶ長さ約八百七十メートルの参道「八丁道(はっちょうみち)」があり、その奥には、日本一高いといわれる約十二メートルの巨大な石塔が立てられていて、訪れた者はその威容に驚きます。
このように、江戸時代には諸国の大名が黄檗宗に帰依し、境内に贅を尽くした立派な廟所をつくることが当時の通例でした。しかし、維新後に黄檗宗は大きなダメージを受けます。
将軍や大名家の権力を象徴する存在だったことから、廃仏毀釈運動では、全国にあった数百の黄檗宗寺院が破壊され、たとえ残ったとしても、瑞龍寺のように黄檗宗から臨済宗に宗派を変えることを余儀なくされました。そのような歴史背景の中で、東光寺が黄檗宗のまま残ったことを、私はうれしく思いました。
著名な観光地から一歩脇に入った、知る人ぞ知る隠れた場所には、秘められた魅力が残されている。東洋文化研究者アレックス・カーが、知られざるスポットを案内する「巡礼」の旅が始まる。