「舞踏」の誕生
日本は「舞踏」発祥の地ですが、そのことは一般的にあまり知られていません。舞踏は日本的でありながら、世界的です。西洋と東洋がうまく融合したものの一つで、普遍的なパワーを備えたものだと私はとらえています。田代の話をする前に、舞踏の歴史を簡単に振り返ってみます。
舞踏は一九六〇~七〇年代の東京で生まれた前衛芸術です。当時の東京には騒然とした空気が流れており、新宿には社会から外れた人たちの蠢(うごめ)く吹き溜まりがあって、 前衛芸術家たちが、広島・長崎への原爆投下など負の出来事を、創造的な芸術へと置き換える作業に熱中していました。また、急速に資本主義に染まる日本の中で、彼らは「本当の日本」を必死に求めていたのです。
そのような時代に生まれた舞踏のスタイルは、一言でいえばグロテスクでおぞましいものでした。病気にでもかかったような、ぎこちない動きをあるがまま、時には強調して伝えたのです。同時にエロティックでもあり、特に男性は裸に近い格好で肉体美をセクシャルに表現しました。女性は捨てられた人形のような恐ろしい姿で出てくることもあります。
舞踏の発祥は日本ならではのものでしたが、伝統芸能には徹底的に抗(あらが)っていました。
土方は歴史の重みや形骸化した作法に縛られることを嫌い、日本舞踊や能を常々批判していました。ゆえに舞台では邦楽ではなく、ビートルズやジャズ、クラシック音楽を使い、テーマの根底にプルースト、ジャン・ジュネといったフランス文学の感性を取り入れていました。本当の日本を見つけようとした時に、批判とともに、憤怒や侮蔑の感情が湧き起こる。その感情は愛をも孕(はら)み、複雑な要素が幾重にもからみあったものでした。
土方は一九二八年に秋田市で生まれています。工業学校を卒業した後に、秋田市でドイツの表現主義舞踊であるノイエタンツを習得。四七年に上京し、都会を彷徨(さまよ)って、さまざまなアイデアや試みが胸の内に湧き上がってきたころに、先輩舞踏家の大野一雄と出会います。女性に扮して踊る大野は、当時でも際立った前衛芸術家でした。その出会いをきっかけに、土方は独自の表現を突き詰めるようになっていきます。
五九年には三島由紀夫の許しを得て、大野の息子の大野慶人(よしと)と『禁色』を演じました。その時に土方が自分の踊りを「暗黒舞踏」と名付けたことが、「舞踏」の始まりです。その後、土方が始めた白い粉で顔や全身を塗るスタイルはすっかり舞踏のシンボルになり、世界中の舞踏家が白塗りで踊るようになっていきます。『禁色』初公演の客席には、三島や細江のほか、ドナルド・リチーもいました。舞踏は初期から外国人を巻き込み、さまざまな舞踏家や評論家を通して世界へ普及していったのです。実際、リチーは、土方についてのアートフィルムを二作品制作しています。
私がはじめて舞踏の舞台を見たのは七八年、二六歳の時です。アメリカ進駐軍時代にマッカーサーのスタッフとして来日したフォービアン・バワーズと一緒に、東京で舞踏劇団「大駱駝艦(だいらくだかん)」 の公演を見に行きました。バワーズは、進駐軍が歌舞伎を「軍国主義的」として廃止しようとした時に「待った」をかけ、「歌舞伎を救った人」としても知られています。演劇が好きだった彼は、大駱駝艦の主宰者、麿赤兒(まろあかじ)の舞踏に感激し、ジャパンタイムズ紙で大駱駝艦の公演を絶賛したのです。
土方が五七歳で亡くなった八六年以降、舞踏はコンテンポラリーダンスの中の特殊な様式として、パリやアメリカ各地で定着します。大野一雄は土方が演出した、有名な演目『ラ・アルヘンチーナ頌』を世界各地で演じ、日本でも土方の弟子や、舞踏家で夫人だった元藤燁子(もとふじあきこ)が、彼の遺志を継いで活動を続けました。麿の大駱駝艦や、天児牛大(あまがつうしお)の率いた『山海塾』は、今も世界的に活躍しています。
著名な観光地から一歩脇に入った、知る人ぞ知る隠れた場所には、秘められた魅力が残されている。東洋文化研究者アレックス・カーが、知られざるスポットを案内する「巡礼」の旅が始まる。