峠を越えて「鎌鼬」の村へ
羽後(うご)町に入ったところで、「書店ミケーネ」を営む阿部久夫さんが私たちを迎えてくれました。阿部さんは、「鎌鼬(かまいたち)美術館」を運営するNPO法人「鎌鼬の会」の事務局長を務めています。
阿部さんの先導で、私たちは羽後町の市街地を抜けていきました。途中、「七曲(ななまがり)峠」という峠道をうねうねと越えながら、田代の集落を目指します。峠の途中に立ち寄った「七曲山」の見晴らし台からは、眼下に広がる平野がパノラマで眺望できました。車で進むこと約二〇分。小雨が降る中に、素朴な雰囲気を持った田舎の集落がひっそり佇(たたず)んでいました。
茅葺き屋根の民家が点在し、田んぼのところどころに「稲架(はさ)」(収穫した稲を天日干しにする高さ三メートルほどの木組み)が立てられている風景。おそらく土方と細江が訪れた時から、ほとんど変わっていないのではないでしょうか。私は感慨を持って、この風景をしばらく眺めました。
私に田代という地名を教えてくれたのは、アメリカの友人で、日系三世のマイケル・サカモトです。マイケルは土方の“Butoh”に心酔する現代舞踏家であるとともに、写真家でもあります。彼は以前から、田代が舞踏のルーツで、写真集『鎌鼬』がいかに重要なものか、私に熱弁を振るっていました。今回、私たちに阿部さんを紹介してくれたのも彼です。
五三年前の九月のある日、舞踏の鬼才と名写真家は、疾風のごとく集落に現れ、奇妙奇天烈(きてれつ)な振る舞いを尽くし、再び疾風のように去っていきました。
田んぼ脇で休憩している村人の輪に唐突に登場し、異物のように座り込む土方。「飯詰(いづめ)(藁(わら)の丸い籠)」の中に寝かされていた赤ん坊をつかんで脇に抱え、人さらいのように村を駆け抜ける土方。白いボロボロの衣装に身を包んだ彼は、その異様な姿のまま、納屋の屋根から飛び降りて、近くで遊ぶ子どもたちを驚かせるなど、不思議な行為を繰り返しました。
「鎌鼬」とは、暗闇で旅人を切り裂く妖怪のことです。あまりに素早く鋭いため、当人は切られたこともすぐにはわからず、傷口に気づくころには死んでしまいます。舞踏を見た人たちが受ける精神的なショックも、鎌鼬による傷と同じようなものだと考えたのでしょう。ゆえに細江は写真集のタイトルを『鎌鼬』にしたのです。嵐のように現れ、去っていった土方と細江たち自身も、鎌鼬そのものでした。
前述したように、六〇年代の日本の芸術家たちはフランスのシュルレアリスム、つまり超現実主義の世界に心を奪われた人たちでした。ゴミゴミとした大都会で生まれたグロテスクな舞踏は、その背景とかけ離れたピュアな田代に持ち込まれることで、より鮮烈に浮かび上がることになったのです。
土方と細江が秋田の地を選んだのは、土方の父親が羽後町出身で、細江も戦時中に山形へ疎開した過去があったからだと思われます。
著名な観光地から一歩脇に入った、知る人ぞ知る隠れた場所には、秘められた魅力が残されている。東洋文化研究者アレックス・カーが、知られざるスポットを案内する「巡礼」の旅が始まる。