舞踏と写真の聖地
七曲の峠道は、田代の集落にある「長谷山家」という豪農の旧邸宅に辿り着くように敷かれています。その長谷山邸の一画にある土蔵に、「鎌鼬美術館」が設けられています。そこには『鎌鼬』に掲載された写真をはじめ、関連した資料が展示されていて、小規模な美術館ですが、舞踏の歴史を知る時に欠かせない特別な場所です。長谷山家の子孫で「鎌鼬の会」理事長の長谷山信介さんが、羽後町に寄付したお屋敷と、美術館を案内してくれました。私は「聖地」に辿り着いた思いで、館内を拝見しました。
土方は『鎌鼬』の撮影後、東北の地に戻ってくることはほとんどありませんでした。しかし、彼の心には常に「東北」がありました。
舞踏の哲学を問われた時、彼は自身の原点としての東北を秋田なまりで語り続けたといいます。彼が語りたかった東北は、「土」「水」「田んぼ」などの自然、茅葺きの「家」、共同稲作の「村」という、素朴な人間社会のことでした。秋田の土地には、歴史を遡(さかのぼ)ること数万年前の、文明が生まれる以前の雰囲気が宿っていて、その原始的な感覚が土方にインスピレーションを与えたのではないでしょうか。
『鎌鼬』は、細江英公という一人の写真家が、あるビジョンをもって創造した芸術作品でもあります。実際に、土方の多くの動きは、細江の演出によるものでした。出版から五〇年以上過ぎた今、当時の村の姿、舞踏が生まれたルーツを知るための唯一残された手がかりが、この写真集です。しかし、世界中にいるButohの踊り手が憧れる『鎌鼬』の世界は、彼らが思う「純な舞踏」というよりは、細江のイメージによって築かれた幻想といってもいい。その意味で、田代は舞踏だけでなく、「写真の聖地」ともいえるのです。
さて、舞踏家が田代へ来ると、どうしても土方の真似をしたくなります。たとえば、『鎌鼬』の中に、田んぼの稲架の上に鴉(からす)がとまるように腰をかけ、彼方を茫洋(ぼうよう)と見つめる土方をとらえた一枚があります。マイケル・サカモトは稲架の上に登ってポーズを取りました。ほかにも奇妙な表情を浮かべながら浴衣姿で踊ったりしながら、土方に自身を重ねました。
『鎌鼬』には土蔵で土方が「うらめしや~」のポーズを取った写真があります。その場所に案内された際には、舞踏家とは程遠い私でさえ、ついそんな気分になって、同じ格好で写真を撮ってしまいました。
著名な観光地から一歩脇に入った、知る人ぞ知る隠れた場所には、秘められた魅力が残されている。東洋文化研究者アレックス・カーが、知られざるスポットを案内する「巡礼」の旅が始まる。