「自然」の生命力を残す空間
晩に泊まることになっている珠洲(すず)市の「湯宿 さか本」も、高木さんが設計した建物です。夕食の時間に遅れぬよう、急いで穴水から半島の先端に位置する珠洲へと、海を右手に眺めながら車を走らせました。半島の寒村風景から市街地へと抜けて宿に着くと、たくさんの紅葉(もみじ)が植えられた広大な敷地が私たちを迎えました。
紅葉の枝は空を覆うように広がって伸び、その隙間から夕日が差し込む光景は、私の好きな「自然」の世界でした。
日本の庭園や生け花など、木々草花を扱う伝統芸術は、「自然そのもの」だけでなく、人間の手により意図的に創作された「人為的なもの」をあわせ持ち、そのバランスにも長けているのが特徴です。
しかし近年は、都会的な感覚が人の心の奥深くまで侵食してきたのか、あるいは、きっちりと完璧に手入れされた禅寺の砂庭が文化の極みとされているためか、日本庭園や旅館では、そのバランスが崩れてきています。
「落ち葉が汚い」といって木の枝を切り落として木陰を減らしたり、萩やススキのような秋草を排除して、刈り込まれた生け垣にしたり。歩道はコンクリートブロックを敷き詰めて、金属のガードレールを設置し、周りも砂や砂利で固めてしまったり。そうすると鬱蒼(うっそう)とした自然の生命力はなくなり、人工的で妙に明るい「シラけた」空間になってしまいます。
ですから、たまにそうでない自然への愛を感じられるところを見つけると、私はうれしくなってしまいます。「さか本」は、まさしくそんな場所で、宿への道はまだ土のまま。本館の廊下は外風が入る開放的なつくりで、離れのコテージの屋根には草が生えていました。高木さんが宿主の坂本新一郎さんのために設計した建物は、一見、長い年月の中で囲炉裏の煙に燻(いぶ)され、黒光りするようになった古民家のようですが、実は三〇年前に新築したものだそうです。それでも太い梁で組まれた吹き抜けスペースの空間には風格があります。床、柱、梁などの黒色は、「拭き漆」の技法で仕上げられたとのことでした。
坂本さんは料理に対して強い情熱を持っています。お父さんが食の名人で、坂本さん自身は若いころにフレンチのシェフのもとで修業し、その後もさらにスペインやタイで勉強・研究を重ねました。夕食でいただいた料理は、珍しいものではないのですが、どれも素材や調味料が厳選されていました。
敷地内にある池の脇に、音楽を聴きながらお茶を飲むことのできるコテージがあります。普段、客が泊まることは想定していないようですが、その晩、私はそこで寝させてもらいました。朝は、池に反射した陽光が部屋に差し込み、周りからは鳥のさえずりが聞こえてきました。こうした環境を守ってくれている坂本さんには、感謝の思いでいっぱいです。
著名な観光地から一歩脇に入った、知る人ぞ知る隠れた場所には、秘められた魅力が残されている。東洋文化研究者アレックス・カーが、知られざるスポットを案内する「巡礼」の旅が始まる。