豊かさの名残と新しい風
これまで私は建物や景観の保存活動に力を入れてきましたが、八頭町、智頭町との出会いは「食」から始まったものでした。古民家の再生も重要なことですが、最近では「食」が日本の地域再生の鍵になると考えるようになっています。今回の旅でも、食に関して三つの発見がありました。
まず一つは、智頭町にある割烹旅館「林(はやし)新館」との出会いです。この旅館は昨今流行りのSNS発信とか、PR誌での宣伝などをしていないせいか、実際に泊めてもらうまで、どのような宿なのか、よく知らないまま訪ねることになりました。
館内に入って、私たち一行はいささか驚くことになりました。旅館の部屋数は三室のみと聞いていましたが、いずれも広い次の間付きで、障子の向こうに清涼な庭を見ることができます。数寄屋造りの建物は掃除が行き届いており、館内に生けられた野花には、京都の料亭のような格調高い雰囲気が備わっています。
先述した通り、私は無数の料理をテーブルいっぱいに並べる、いわゆる旅館料理のスタイルが好きではありません。しかし、ここの料理はほどよい品数とボリューム感で、味付けも素材の風味をしっかりと引き出したシンプルなものでした。智頭は観光では有名な場所ではありませんので、この文化はもとから土地に根付いていたものと推測できます。
女将に話を聞いたところ、先々代は昭和時代の初めに町で初めてハイカラなカフェーを開いた方で、その立派な建物が近隣の話題を呼び、遠方からもお客さんをたくさん迎えたそうです。智頭町には、材木で潤った豊かさの名残がベースにあるのだと思いました。
一方で、最近はUターンやIターンなどで若い人を呼び込もうとする動きが全国の地方で活発ですが、智頭にも外から若い世代が入っています。
今回の取材では「タルマーリー」という、自家製天然酵母パンのベーカリーを訪ねました。このネーミングは、オーナー夫妻の渡邉格(いたる)さん、麻里子さんの名前から考えられたそうです。彼らは元々、千葉でベーカリーを開いていましたが、パンの発酵に不可欠な綺麗な空気を追求し、岡山の真庭(まにわ)市を経て、この地にやってきました。
智頭町では、廃園となった元・保育園の建物を厨房兼カフェにリフォームして、お客さんを迎えています。元々はベーカリーとしてスタートした店ですが、「発酵」という共通のテーマから、クラフトビールの醸造も手がけるようになりました。複数のビールのテイスティングも体験させてもらいましたが、どれもさっぱりとフルーティで、シャンパンのような口当たりでした。
渡邉さん夫妻は、パン作りを追求する中で、イーストなどの純粋培養菌ではなく、自家培養した野生酵母を扱うようになり、それ以来、クラフトビールでも野生酵母のみの醸造を探求しています。
パンで使う小麦粉は、その三割が近隣で栽培された小麦を自家製粉したもの。ビールでは、副材料となる大麦やはちみつ、フルーツに近隣で採れる自然素材を使っているそうです。そのような夫妻の取り組みは、地域再生の理想的な形の一つだと思います。
著名な観光地から一歩脇に入った、知る人ぞ知る隠れた場所には、秘められた魅力が残されている。東洋文化研究者アレックス・カーが、知られざるスポットを案内する「巡礼」の旅が始まる。