パチンコ台の後ろに入っていた時代もあった
――歴史をたどっていくとかなり複雑な変遷があるんですね。松田さんが映画業界に関わることになるきっかけはなんだったんでしょうか。
「私がここに来たのは、昭和31年(1956年)なんです。その時には十三劇場、十三朝日座という映画館があって、十三朝日座は昭和33年に『十三シネマ』と改称するんですが、当時、『掛け持ち』ゆう仕事があったんですわ。掛け持ちゆうのはね、映画のフィルムを自転車に積んで運ぶ仕事です。あちこちの映画館でそれを時間差で上映していくんですね」
――なるほど、一つの映画館で上映が終わったら、今度はそのフィルムを別の映画館でかけると。
「2館ないし3館の映画館の間を運んでまわるわけです。たとえば梅田の映画館で10時に上映したフィルムを十三で11時に上映するとかね、全部いっぺんにやるわけやなしに、分けて運んでくるんですね。当時フィルムは貴重やったからね」
――貴重なフィルムを松田さんが自転車で運んでいた。
「いかに早く届けるかゆうね、その1分が勝負なんですわ(笑)」
――スピードが重要だったんですね。
「そうしないと回数が増やせないわけです。それをやっていたのが20歳の時です」
――それはアルバイトのようなお仕事だったんですか?
「いや、正社員だったんです。映画館を運営している十三興行株式会社に入社しました。当時、一ヶ月の給料がたしか5000円やったと思うんですよね。その後にすぐ映写技師の免許を取った。これが免許で、昭和33年の5月とありますね」
「昭和35年。入社して4年後には映画館の支配人になったんです。24歳か25歳の時です。『十三劇場』という映画館が業態を変えて、『十三ホール』ゆうパチンコ屋になったんですわ。それで今度はパチンコ屋の支配人になってるんです」
――映画館の支配人とパチンコ店の支配人というとかなり違うように思うんですが、松田さんはそもそも映画がお好きだったんですよね?
「いや、昔はね、娯楽ゆうたら映画しかなかったんですよ。もちろん好きは好きだったんですけどね。映画マニアみたいに好きなわけではなかった。仕事はなんでもええわって感じでしたね。とにかくどっか働いとったらええわって(笑)」
――特に選んで映画の仕事についたわけではなかったんですね。その頃の十三の町はどんな雰囲気でしたか?
「当時の十三は暴力団がいくつもあって、特に困ったのがチンピラが映画館に来てタダ入りをしようとするんです。そこで学んだのが、交渉事は引いたら負けるという事です。その時はすごまれて怖くても、きっぱりと断ったらそれで勝ち。弱みを見せたら負けで、その後も痛めつけられることになるんです。このことはその後の数々の交渉ごとに活かしてきました。引いたら負けの精神は今でも持っていて、敵を作ってしまう事もありましたが」
――そういう経験で鍛えられていったんですね。ちなみに十三ホールの支配人というのは実際にはどんなお仕事だったんでしょうか?
「当時はね、“島”ゆうてね。パチンコの台が並んでますやん。そのまとまりを“島”と呼んでいました。台の後ろには必ず人がおったんですわ。球が落ちてきますわね。それを下で受けて、また上へ上げてっていうのを人がやってたんです。私がその配置をするんですね。どこに誰を配置するかと。忙しい島と、暇な島とあるんですわ。働いている人の8割ぐらいが夫婦なんですわ。その夫の方がね、圧力かけてきよる(笑)。自分の女房を少しでも楽なところに入れてもらおうと。まあ、人の配置ですわ。体の弱い子は楽なところに入れてとか、それが主な仕事やね」
――パチンコ台の後ろに人が入っていた時代があったなんて知りませんでした。
「台の後ろに人が走れるぐらいの幅があって、両面にパチンコ台があるわけですわ。その後に、落ちた球を自動で上げる還元機ゆうのができて。今はもう、直に機械で球を送って、落ちたやつはそのまま回収されるというシステムになってるけど、前は人がやっていた」
――その時は、映画館の支配人も兼任していたんですか?
「いや、その時は映画はやめてパチンコだけやったね。当時は1階がパチンコ屋で、2階に寮があって、働いている人はほとんど住み込みでしたわ。よそで仕事がない人とか、夫婦で駆け落ちしてきた人なんかが面接に来てた。当時は偽名とか当たり前やったんですよ。身元も問わない。どこかから逃げてきた人とかね」
――その後、昭和45年(1970年)には十三興行の取締役になっているんですね。
「そこからも色々なことをやりましたね。当時ゲームセンターゆうのが出だして、あちこちにゲームセンターを作ったりね。一番遠いのは布施で、あとは四貫島とか。当時、十三興行が多角化を始めてるんですね。たとえば旅行あっせん業とか。レコード屋もやってたことがあって、ぼちぼちと飲食店もやり出しているんです」
――映画館から発展して、色々なレジャーを手掛けるようになっていくわけですね。
「ここのサンポードシティビルの建設が昭和46年(1971年)に始まって、建て替わった時は地下1階の300坪だけがテナントで、そこにはキャバレーが入って、あとは直営店でした。2階、4階、6階とボウリング場があって、最初はほとんどボウリングのビルやったんですわ。1階にはパチンコ屋があって、和食の店とか、喫茶店もあった。昭和47年にはビルの6階に『十三シネマ』が復活したんです」
――サンポードシティビルの中にそれだけ色々な業態のお店があって、松田さんはそういう色々な職場を広く見渡しているような立場だったんですか?
「社長は別におりますから、自分はナンバーツーみたいな立場で、まあ手のひらに乗せられているというかね(笑)。でも、なにか開発するゆうたら自分がしてるんですよ。『心斎橋ビッグステップ』の中のシネマとか、その近くに『グルメタワーアクロス』っていうのがあって、そこにパーティー会場を作ったり。レジャーの業種は色々やりましたよ。麻雀屋とかね。ライブ会場とか。時代が変わるとどんどん業態変更していくんですわ」
2014年から大阪に移住したライターが、「コロナ後」の大阪の町を歩き、考える。「密」だからこそ魅力的だった大阪の町は、変わってしまうのか。それとも、変わらないのか──。
プロフィール
1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』『QJWeb』『よみタイ』などを中心に執筆中。テクノバンド「チミドロ」のメンバーで、大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』(スタンド・ブックス)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)、パリッコとの共著に『のみタイム』(スタンド・ブックス)、『酒の穴』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)がある。