「朝鮮市場」から「大阪コリアタウン」へ
大阪コリアタウンの通りは、まるで神社でお祭りをやっているのではないかと思うほどに賑わっている。
「この大阪コリアタウンのあたりも戦前はいわゆる日本の商店街らしい雰囲気で、今とはまったく違ったんです。昔ながらのお好み焼き屋さんが今も残っていますが、両脇には韓国の明洞にあってもおかしくないようなファーストフードの店が並んでいるという、不思議な光景になっていますね。平日でもこの通りの人出で、逆に地元の人がなかなか買い物できないという(笑)。コロナ前からこの状態でしたし、コロナ禍で海外に渡航できなくなった時は『韓国に行けなくなったからここに来た』という人も多くて、かえって人が増えたほどです」
「現在の大阪コリアタウン、つまり戦前の御幸森商店街は、いわゆる日本の商店街的な雰囲気だったと言いましたが、かつてはこの通りを横切る道に『猪飼野朝鮮市場』という一画ができていたんです。路地の左右に多くの長屋が建っていたんですが、1930年代はじめになるとそこに住む在日コリアンの人たちが店を出し、日本で暮らす朝鮮半島出身者にとって、民族的な生活を営むために必要なものを売り買いするためのマーケットができていったんですね」
「チェサをするために必要なものや、チェサのための料理に必要な材料がここに来れば買えたんです。大阪だけでなく、関西一円に住んでいた朝鮮人がここに買い物に来たそうです。当時、大阪府内各地に小さな規模の朝鮮市場っていうのはいくつかあったんですけど、ここは規模が特に大きくて有名になっていった。ここに一極集中して、他が衰退していくような流れもあったそうです」
しかし、かつて『猪飼野朝鮮市場』が存在したという通りも、今は静かな住宅街の裏路地に戻っている。
「この一画は1945年の6月の空襲で焼けてしまったんです。そして同時に、メインの通りであった御幸森商店街の方も、戦時中の物資不足によって商店街としての形を維持できなくなっていく。そうなると終戦後、今度は御幸森商店街の表通りの方が『御幸森朝鮮市場』と呼ばれるようになって賑わって、一時はまさに今と似たような状況になっていた。しかし、その後、日本が高度経済成長期を迎えると、今度はここでしか買えなかったものが地方の町でも買えるようになって、徐々に衰退していく。そして、ここにあった商店のなかには、より多くの人が集まる鶴橋駅の方へと移っていくところもあった。そのようにして街のバランスが時代ごとに目まぐるしく変化しているのがこの一帯なんです」
かつてあった商店の多くが鶴橋駅周辺へと移り、一時は衰退していた御幸森商店街が今のような賑わいを取り戻し始めたのは1980年代の末のことだったという。
「御幸森商店街で頑張っていたお店が集まって、コリアタウンとしての町おこしを始めたのが1988年頃でした。当時は7対3ほどの割合で韓国系のお店が多かったんですけど、それでも3割は日本のお店なわけです。その人たちにしたら『なんで自分らの町が“コリアタウン”になるんや』と、また、韓国の人たちの中にも『“コリアタウン”なんて言い出すと、目立ってしまって何か嫌な思いをするかもしれん』と怖がる人もいて、当初はなかなか話がまとまらなかったそうですが、商店街の人同士を積極的につないでいこうとする動きが成果を上げて、1993年に正式に『生野コリアタウン』を名乗るようになり、徐々に賑わいを取り戻していったんです。今年(2023年)の4月からは『生野コリアタウン』から『大阪コリアタウン』へと名称を変更したんです。名実ともに、大阪を代表するコリアタウンになりました」
2014年から大阪に移住したライターが、「コロナ後」の大阪の町を歩き、考える。「密」だからこそ魅力的だった大阪の町は、変わってしまうのか。それとも、変わらないのか──。
プロフィール
1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』『QJWeb』『よみタイ』などを中心に執筆中。テクノバンド「チミドロ」のメンバーで、大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』(スタンド・ブックス)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)、パリッコとの共著に『のみタイム』(スタンド・ブックス)、『酒の穴』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)がある。