平野川が見つめる町工場の戦後史
屋台でテイクアウトした食べ物を片手に多くの人が歩く大阪コリアタウンの端に、川が流れている。
「ここが新平野運河(平野川)です。先ほど、かつてあった川が埋め立てられたとお話ししましたが、その大規模な河川工事によって、もともとあった川の流れを変えてできたのがこの川です。河川の付け替え工事は1919年から始まって、最終的に終わったのが1958年でした。およそ40年という、それぐらいの大工事だったわけです。かつてはよく川が氾濫したと言いましたが、この工事が完成して以来、水害はほぼ発生していません。そしてその河川の改修工事に、特に戦前、多くの朝鮮人労働者が従事していたんです。戦前の工事の内容について、大阪市が報告書を書いてるんですけど、それを見てみると『朝鮮人の労働者がたくさん従事しているから労賃が安くあげられる』と、そんなことも書かれている。戦前は日本人と朝鮮人の賃金が違うのは当たり前だったんです。大規模な工事で、危険を伴うきつい作業で、それなのに同じ仕事している日本人よりも賃金が低かった」
文さんは平野川の、橋を渡った向こう側を眺めながら言う。「今はかなり少なくなりましたが、この地域には、いわゆる町工場がたくさんありました。建物の特徴を見ると、一階が工場で二階が住居になっている家が多かった。私が初めてこのあたりに来た1980年代の終わり頃、多かったのがゴム製のサンダルを作る工場だったんです。当時は『ヘップサンダル』と呼ばれていましたね。工場の前を通ると畳二畳分ぐらいのゴムの板をガッチャンガッチャンって機械で押し切っていて、切った部分を軽トラに積んで別の工場へ運ぶ。そこで今度は接着剤を使ってサンダルを完成させる。軒先からシンナーの匂いがする、そういう町でした」
「そういうサンダル工場をやっていた人の多くは在日コリアンで、私の親ぐらいの世代の人たちでした。私の親世代の在日コリアンが直面していた就職差別は厳しくて、会社勤めをするというのが難しかった。だからみんな自営業で、それでもなんとか食べていかなあかんので、自分の家の一階部分を改修して工場にする。そこに機械を入れようにもお金がないので、借りるしかないんだけども、日本の金融機関は朝鮮人にお金を貸してくれないことがほとんどでした。ただ、この辺りには韓国・朝鮮系の金融機関がたくさんあったので、そういうところからお金を借りて、そのお金で機械を入れて、家族みんなで作業をしてなんとか生活しているという人が多かったんです」
「そういった人たちのほとんどは加入義務がなかった厚生年金をかける余裕なんてなかったんですよ。国民年金も1982年までは在日コリアンが加入できませんでしたし。つまり、そういう人たちは無年金か、あるいは極めてわずかな国民年金しか受け取ることができないんです。そういう人たちが年を取って、生活するためにどうするかというと、工場の前に山のように積まれたダンボールなどをリヤカーの後ろに積む、廃品回収の仕事などをしていた。私が大阪に来た1980年代後半でも、相当高齢のおじいちゃん、おばあちゃんでもそういう仕事をしているのをいっぱい見ましたね」
「みんなギリギリまで、制度の世話になんかならんと、動けなくなるまで働いて、それでいよいよ動けなくなった人たちを、地域包括支援センターなど高齢者福祉に関わる人たちが生活保護や介護保険という公的サービスにつなげて、ということを一生懸命して、その人たちがなんとか穏やかに過ごせるようにしている。それでも、生活保護を受給している外国人を攻撃する人がいるでしょう? ついこの間の大阪市長選(2023年4月9日に行われた)にも、外国人の生活保護廃止を掲げるヘイト団体の幹部が立候補していましたが、高齢の在日コリアンから生活保護を取り上げるというのは死ねと言ってるのと同じですから。本当に許せない主張だと思います」
文さんは月に一回ほど、このように鶴橋周辺をガイドしているという。その対象は、学校の教職員や、民間の市民団体が主催する講座の受講生などが中心で、最近では企業内研修としてガイドを依頼してくる会社も多いのだとか。
戦後しばらくまでは繁華街だったという一条通りを歩き、ゆっくりと鶴橋駅へと引き返す。通りに沿いには映画館が何軒もあったそうで、最近まで残っていた大衆演劇の劇場はK-POPの若手アイドルがショーをする劇場になったらしい。
古代から韓国・朝鮮半島とつながりを持ち、国内外の情勢や時代に応じて、変化し続けてきた鶴橋。文さんは、その鶴橋で、少しでも多民族・多文化共生が重んじられる社会になるよう、地道に仕事をし続けているという。
鶴橋の街のあちこちで足を止め、たくさんの話を聞いた後、文さんが好きだという鶴橋駅近くの居酒屋に入り、生ビールで乾杯した。そしてそこでは、文さんが力を入れて応援している、“サイケデリックトランスでアタマぶっ壊れるまで大所帯で踊る阿呆”というコンセプトのアイドルグループ「MIGMA SHELTER」の魅力を詳しく聞かせてもらった。「タイミングが合ったら今度ライブに行きましょう!」と言っていただき、お酒が好きで音楽が好きで、そして鶴橋の昔と今をよく知る友人ができたことが、私はとても嬉しくなった。
この原稿に到底書き切れないほどにたくさんのことを文さんは教えてくれた。歴史のことだけでなく、美味しい蒸し豚やキムチを売る店、おすすめの焼肉店についても。それ以降も私は相変わらず鶴橋の街を散策し、飲み歩き続けている。そして街を見てまわるたびに、あちこちに思いがけないものが見つかり、私が知らない鶴橋の一面がまだまだ限りなくあるということを痛感するのだ。
(了)
2014年から大阪に移住したライターが、「コロナ後」の大阪の町を歩き、考える。「密」だからこそ魅力的だった大阪の町は、変わってしまうのか。それとも、変わらないのか──。
プロフィール
1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』『QJWeb』『よみタイ』などを中心に執筆中。テクノバンド「チミドロ」のメンバーで、大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』(スタンド・ブックス)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)、パリッコとの共著に『のみタイム』(スタンド・ブックス)、『酒の穴』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)がある。