■子どもが語る武器と死
翌々日も再び地下鉄を訪れて、子どもたちに話を聞いた。
先日のあのニキータは自分から戦争のことを話してくれた。
「夜に爆撃があった。僕はこの地下鉄で寝ていて知らなかったけど、後でお父さんが教えてくれた。家は大丈夫だったみたい。1週間前にも近くの工場で攻撃があったんだよ。7ヶ月の赤ちゃんが殺されたんだって。お母さんが言ってた」
アンドリがニキータの頭を撫でる。侵攻が始まった日のこともニキータは話してくれた。
「寝ていたところをお母さんに起こされて、それで戦争が始まったと言われたんだ。それから地下室に行った。攻撃の音が聞こえていた」
そしてこう付け足した。
「本当はアクアパークに行くはずだったのに、Baldがウクライナを攻撃したから行けなくなっちゃった」
サシャという同じ愛称の男の子と女の子にも話を聞いた。同じ学年だという。
女の子のサシャはこう言った。
「クラスメートのほとんどは西部かヨーロッパの他の国に避難している。でももう難民でいっぱいで、滞在する場所が見つからないから私たちはここにいる」
今度は男の子のサシャがこう言った。
「僕たちも本当は避難したいんだ。でも、お父さんがウクライナを出られないから(筆者注:18歳から60歳の男性は戦時下で出国が原則禁止)、お母さんがお父さんを置いては行けないって言っているんだ」
彼は、どうやって戦争が始まったかについても話してくれた。
「朝、目が覚めたら強い風があって、お父さんが起きてきた。爆発音も聞いた。燃えているのも見た。地下で寝たよ。グラート(自走多連装ロケット砲)が落ちた。
それからおばあちゃんのいる村にウクライナの兵士が来たらしいんだ。庭に基地を作って(ロシア側に)攻撃をしているそうだよ」
子どもたちの口から、兵器の名前や戦争の様子、赤ちゃんが死んだことが語られる。大人に比べて子どもは将来のことを悩むストレスは今のところは小さいかもしれない。
でも話している様子を聞いていると、この恐怖や不安は子どもたちの心にずっと残るだろうと思えてくる。砲撃の音、家族の心配そうな顔を忘れはしないのだろう。かつて取材したイラクの友人も、シリア難民の子どもたちも、10年前の戦場の様子をはっきりと覚えていた。
最後はボランティアの女性に誘われて、子どもたちと写真を一緒に撮って別れた。
「子どもたちは本当にかわいいね」
愛おしそうな目で見るアンドリ。私も同じ気持ちだった。ブチャやその周辺で過酷な体験を聞き続けていた後だけに、一瞬であっても懐いて笑いかけてくれる子どもたちの存在がとても尊い。生きようとしている、こちらに必死で何か伝えようとしてくれる人間がいることが、私にとっての癒しになる。生を感じられるものにすがりつきたくなる。
でも、この子どもたちの人懐っこさや必死さは、恐怖の裏返し。何かを忘れたい、伝えたいという気持ちからくる懐っこさなのかもしれない。
そして私もハルキウ訪問2日目に、子どもたちが日ごろ味わっている恐怖の一部を実際に体験することになったのである。
ロシアによる侵攻で「戦地」と化したウクライナでは何が起こっているのか。 人々はどう暮らし、何を感じ、そしていかなることを訴えているのか。 気鋭のジャーナリストによる現地ルポ。
プロフィール
1985年三重県出身。2011年東京大学大学院修士課程修了。テレビ番組制作会社に入社し、テレビ・ドキュメンタリーの制作を行う。2013年にドキュメンタリー映画『ファルージャ ~イラク戦争 日本人人質事件…そして~』を監督。同作により第一回山本美香記念国際ジャーナリスト賞、第十四回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞を受賞。その他、ベトナム戦争や人道支援における物流などについてのドキュメンタリーをNHKや民放などでも制作。2018年には『命の巨大倉庫』でATP奨励賞受賞。現在、フリーランス。イラク・クルド人自治区クルディスタン・ハウレル大学大学院修士課程への留学経験がある。