■人道回廊が閉まった中で
ではそのわずかな人たちはどんな状況で逃れてくるのか。
テントの外で駐車場に立ち、避難者が新たに到着するのを待つことにする。いつどのタイミングでどれだけの数の人がやってくるかは、一部の関係者しか知らない。
もう今日は無理だろうかと諦めかけた頃だった。夕方3時半、10台ほどの車が一団となって駐車場に入ってきた。
静かで前触れもなかった。中には戦意のないことを示す白い布をサイドミラーにくくりつけ、また何かが書かれた白い紙を貼る車もあった。
「『子ども』ってロシア語で書いてあるんだよ」
アンドリが教えてくれた。
車は数列になって駐車場に静かに停まった。厳かな光景だった。
到着を喜び抱き合う家族、放心状態の人、さまざまだ。
警察とボランティアたちが車のそばに行き、中の人と話して何か紙に書き込んでいる。避難民の登録を行っているようだった。
おさげの小さな女の子を愛おしそうに抱きしめる男性がいた。彼、ロマンさん(44歳)はこう教えてくれた。
「私たちはカミアンカ・ドニプロフスカ(筆者注:ザポリージャ州西部の町)あたりに住んでいました。4月1日に仕事の用事で私だけ家を出て、会社の本社があるドニプロ(筆者注:ウクライナの主要都市の一つ)まで行きました。
でも私が出た後に、住んでいた町がロシア軍に占領されてしまったんです。その時まで町の状況はよくて危険もなかったのに、突然戻れなくなったんです」
ロシア軍の占領下、父親と離れたまま家族は取り残された。
町ではロシア兵が車に乗った女性に発砲して殺したり、男性を殴ったり、家のものを盗んだりすることが起こり始めた。
家族はどうにかして移動手段を確保し、自力で町を脱出することができた。そしてこの日、一足先にザポリージャへ移動し待っていたロマンさんと25日ぶりに再会したのだ。話している間も彼は愛おしそうに娘の頭をずっと撫でていた。
この日到着した人たちは、通常のルートとは違う大回りの道で来たり、幼い子どもがいるためにロシア軍の検問を通されたりしていた。
この戦争で「子どもがいるから」という情けがロシア軍に通用することが、むしろ不思議な気がしてくる。
ロシア兵に車から降ろされて「お前を殺すこともできる」と言われ、お金を要求されたという男性もいた。
人々はようやく安心して過ごせる街に避難できたと実感しているようだった。
しかし、これからどこへ行くのか、暮らしはどうなるのか。不安な表情を浮かべていた。
ロシアによる侵攻で「戦地」と化したウクライナでは何が起こっているのか。 人々はどう暮らし、何を感じ、そしていかなることを訴えているのか。 気鋭のジャーナリストによる現地ルポ。
プロフィール
1985年三重県出身。2011年東京大学大学院修士課程修了。テレビ番組制作会社に入社し、テレビ・ドキュメンタリーの制作を行う。2013年にドキュメンタリー映画『ファルージャ ~イラク戦争 日本人人質事件…そして~』を監督。同作により第一回山本美香記念国際ジャーナリスト賞、第十四回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞を受賞。その他、ベトナム戦争や人道支援における物流などについてのドキュメンタリーをNHKや民放などでも制作。2018年には『命の巨大倉庫』でATP奨励賞受賞。現在、フリーランス。イラク・クルド人自治区クルディスタン・ハウレル大学大学院修士課程への留学経験がある。