そして紛争下の94年、ボスニア初のシッティングバレー大会が開催される。サラエボからは「スピード」、ゼニツァからは「ゼニツァ92」、トゥーズラからは「トゥーズラ」の3チームが出場した。以後、サラエボで4つ、ゼニツァで3つ、トゥーズラでは5つのクラブが結成されるとともに、国際大会へも参加していく。
94年にはクロアチアのザグレブで行われた欧州選手権の予選に出場、95年にスロベニアで開かれる欧州選手権の本大会への出場権を得た。
24時間包囲されているサラエボから、どうやって外へ出るのか。外へ出たとて戦地であることに変わりない。
「全て、トンネルを通って行ったよ。大会のための準備合宿をゼニツァでやった時には、サラエボから45〜50キロの距離を、激戦地を避けながら、3日間かけて山道を歩いて行ったんだ。もちろん、交通手段があるところはそれを利用したよ。歩いたり乗ったり、乗り換えたり。いずれにせよ、交戦中のクロアチア人地域にかかるところは避けるため、大幅に遠回りしてね」
全員が足に何らかの障がいを負っている。その人たちが国際大会のトレーニングを行うために、山道を3日かけて歩き、目的地にたどり着く。
国際試合に参加するにはもちろん、国外へ出る必要がある。空港はセルビア人に占拠され、飛行機は使えない。トンネルの出口は、セルビア人勢力の軍隊が待ち構えていて狙われることも多い。そんな中をボスニア代表メンバーはトンネルを抜け、バスで国境を越えた。
「バスと言ったって、銃弾でボコボコに穴の空いたヤツさ。そのバスはマイナス17度まで気温が下がっても、窓ガラス一枚さえも無いという代物だった」
ミルザは豪快に笑う。
「別の時に使ったバスはスプリングが無くて、みんな、トラックに積んだジャガイモのようだったよ」
だけど、そんなことは問題じゃなかった。
「とにかく、その時には現地に到着するということが最優先で、つべこべ言っていられなかった。乗り物が無いなら歩いたし、もし敵の兵隊が『捕虜になれば連れて行ってやる』というなら、『どうか、お願いします』と捕虜になったことだろう。実際、そんな場面はなかったけどね」
ここが、原点なのだ。
「その当時からすでに、目的のためには何でもやる、諦めない不屈性がチームの性質としてあったことになる。われわれは戦時下でも、こうすれば目的のものが手に入るという経験を積んだ。不屈性、一貫性、これらは現在でも続いている」
(C)Paralympic Documentary Series WHO I AM
激しい戦闘が続いていようが、自分たちはシッティングバレーがしたいんだ! どんな困難にぶつかろうとも、この明確な意志を表明し、実行し、目的のものを手に入れてきたしたたかさ。その始まりから、不屈の魂というべきものをボスニアチームは身にまとっていた。
内戦で足を失った選手、宗教上の制約で女性が活躍できない国に生まれたアスリート……。パラリンピアンには、時に五輪選手以上の背景やドラマがある。共通するのは、五輪の商業主義や障害者スポーツに在りがちなお涙頂戴を超えた、アスリートとしての矜持だ。彼らの強烈な個性に迫ったWOWOWパラリンピック・ドキュメンタリーシリーズ「WHO I AM」。番組では描き切れなかった舞台裏に、ノンフィクション執筆陣が迫る。