サフェトの妻であるアムラもまた、戦場となった街で生きざるを得なかった子どもの一人だ。
「戦争が始まった時、私は9歳でした。始まった時は、パルチザンの映画かと思いました。爆弾が落ちるので、一応かがむんですが、これは映画なのだから何も実害はないと思いたかった。だけど実際は家に連日、銃弾が打ち込まれ、父は戦場から帰ってこない。食料も水も電気もない。そんな中、毎日、学校に通っていました。戦争中なんですが、その頃が、一番よく遊んでいた時代です。だって、子どもだったから。ありがたいことに私たちは生き残れ、私の家族は誰も怪我さえしませんでした」
サフェトたち一家3人が暮らすマンションの外壁にも、「当たり前のように」銃弾や砲弾の痕が打ち込まれている。
(C)Paralympic Documentary Series WHO I AM
3歳の娘・アヤに、サフェトは慣れた手つきで哺乳瓶でミルクを飲ます。コートの中とは別人のような柔和な表情のサフェトの傍で、アムラが言う。それはボスニア人誰もが抱く、同じ思いだ。
「ニュースなどを見ると、また戦争が起きるという人もいますが、当然、そんなことが起きて欲しくありません。自分やサーヨ(サフェトの愛称)のためだけでなく、アヤのためにも決して。私たちがやっと生き延びた体験など、あの子にはしてほしくありませんから」
観光マップに記された負の遺産
サラエボ市内の観光マップでひときわ目を引くのが、「スナイパー通り」という名称だ。占拠された高層ビルから、この通りを歩く人たちをスナイパーが狙い撃ちした場所なのだが、その忌まわしい記憶が息づく通りを敢えて、「スナイパー通り」として観光名所にしてしまう。このサラエボ市民のアイロニカルなユーモアは、サラエボ市民が持つ不屈の精神に裏打ちされたものなのか。
「サラエボの薔薇」もそうだ。サラエボ市内のアスファルトには、いくつも赤い点々がある。砲弾や爆撃によって死者が出た場所に残された、砲弾痕や銃弾痕に赤い樹脂を流し込んだものだ。それを敢えて、サラエボ市民は「サラエボの薔薇」と呼ぶ。
(C)Paralympic Documentary Series WHO I AM
当時、陸の孤島となった街にとって唯一、外との出入り口となった生命線が、空港近くに掘られたトンネルだ。その一部も「トンネル博物館」として、一般に公開されている。サラエボ中心部から車で1時間ほどの場所に、かつて800メートルあったトンネルが20メートルほど残され、当時の写真、衣類や武器、配給された食品、物資を運ぶトロッコなどとともに展示されている。
内戦で足を失った選手、宗教上の制約で女性が活躍できない国に生まれたアスリート……。パラリンピアンには、時に五輪選手以上の背景やドラマがある。共通するのは、五輪の商業主義や障害者スポーツに在りがちなお涙頂戴を超えた、アスリートとしての矜持だ。彼らの強烈な個性に迫ったWOWOWパラリンピック・ドキュメンタリーシリーズ「WHO I AM」。番組では描き切れなかった舞台裏に、ノンフィクション執筆陣が迫る。