WHO I AM パラリンピアンたちの肖像 第7回

不屈のボスニア魂

サフェト・アリバシッチ 激動の時代に、シッティングバレーボールと出会う

黒川祥子
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ロンドンパラリンピックでチームに金メダルをもたらし、MVPにも輝いたシッティングバレーボーラー、サフェト・アリバシッチ。不屈の闘志を生んだのは、隣人同士が殺しあう悲劇を生んだ祖国のボスニア内戦だった……。内戦下で、何が起きていたのか。ボスニア人は、シッティングバレーを通じて悲劇からどの様にして立ち上がったのか。WOWOWパラリンピック・ドキュメンタリーシリーズ「WHO I AM」。番組では描き切れなかった舞台裏に、ノンフィクション執筆陣が迫る。

 

 かつて、「ヨーロッパの火薬庫」と言われたバルカン半島。この北西部に、ボスニア・ヘルツェゴビナはある。ヨーロッパと中東の間に位置し、歴史的・地理的にも東西文明の交差点として、多彩な文化が共存する「東西の十字路」として知られる場所だ。

 首都はサラエボ。サフェト・アリバシッチはここで、2歳年下の妻と幼い娘と3人で暮らしている。

(C)Paralympic Documentary Series WHO I AM

 サラエボといえば、多くの人が記憶するのは1984年に開催されたサラエボ冬季オリンピックより、殺戮が繰り返されたボスニア内戦だろう。

 旧ユーゴスラビア連邦の中で唯一、特定民族の国家名を作ることができないほど、多民族による混住が進んでいたボスニア・ヘルツェゴビナ。旧ユーゴ時代は、イスラム教徒のボシュニャク人、セルビア正教徒のセルビア人、カトリック教徒のクロアチア人という、3民族共存の地だった。サフェトはじめ代表チームメンバーはみな、ボシュニュク人だ。

 3民族の違いは宗教のみで、言語も文化も一緒。民族同士の結婚も進み、ボスニアで3民族は融和的に暮らしていた。それゆえ、ボスニア内戦は隣人同士が殺しあう最悪の悲劇となった。

 1990年に旧ユーゴが解体し、スロベニア、クロアチア、マケドニアが独立を表明する中、92年、ボスニア政府はセルビア人がボイコットする中で国民投票を強行、独立を決定した。セルビア人は独立を拒否、直ちに内戦が勃発した。

 首都・サラエボは92年4月5日から96年2月29日まで、ほぼ4年という長期に渡り、セルビア人勢力によって包囲された。盆地というすり鉢状の街の、そのすり鉢の縁に隙間なく軍隊が配備され、子どもから年寄りまで一般市民が標的にされ、生活の舞台が一夜のうちに、戦場と化した。

故郷が「民族浄化」の場所に

 一方、サフェト・アリバシッチが生まれたボスニア北西部はセルビア人に占領され、「民族浄化」という名の虐殺が繰り広げられた場所となった。ボスニア南部は主にクロアチア人との交戦地域となった。

 1995年に停戦を迎えたが、死者20万人、避難民は200万人という悲劇を生み、約4万人が障がい者として生きなければならなくなった。

 サラエボオリンピックの栄光を刻んだ競技場は今や、夥しい数の白い墓石が並ぶ、市民の墓場となっている。

 現在も至るところのビルやマンションの外壁には、激しい銃撃や砲弾の痕が生々しく残り、市民が暮らす家々が攻撃の対象とされたことを物語る。

 サラエボ市民は紛争時、いつ被弾するかわからないという恐怖と隣り合わせで、日常を送ることを余儀なくされた。

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 第6回
WHO I AM パラリンピアンたちの肖像

内戦で足を失った選手、宗教上の制約で女性が活躍できない国に生まれたアスリート……。パラリンピアンには、時に五輪選手以上の背景やドラマがある。共通するのは、五輪の商業主義や障害者スポーツに在りがちなお涙頂戴を超えた、アスリートとしての矜持だ。彼らの強烈な個性に迫ったWOWOWパラリンピック・ドキュメンタリーシリーズ「WHO I AM」。番組では描き切れなかった舞台裏に、ノンフィクション執筆陣が迫る。

プロフィール

黒川祥子

東京女子大学史学科卒業。弁護士秘書、業界紙記者を経てフリーに。主に家族や子どもの問題を中心に、取材・執筆活動を行う。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待~その後の子どもたち』(集英社)で、第11回開高健ノンフィクション賞受賞。他の著作に『子宮頸がんワクチン、副反応と闘う少女とその母たち』(集英社)、橘由歩の筆名で『身内の犯行』(新潮社)ほか。息子2人をもつシングルマザー。

 
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不屈のボスニア魂

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