止まっていた、サフェトの時計が動き出す。
「とにかく、自分が障がい者であることを受け入れなければ何もできないことがわかったんだ。バレーボールは、自分の人生に間違いなく、喜びをもたらしてくれた。バレーボールはオレに普通の生活を取り戻させてくれた。バレーボールとともに、これまでとは別の道を歩み始めたんだ」
二人の成長にとって、ボスニア・ヘルツェゴビナ代表選手である、エディン・イブラコヴィッチの存在は大きかった。どんなトレーニングをすればいいのか、どんな振る舞いをすればいいのか、若い二人はエディンからどんどん吸収していく。
「オレたちがシッティングバレーで成功するように、あらゆる努力をしてくれた。技術面だけでなく、サラエボの『スピード』に移籍するためのコンタクトや、代表チーム入りにも、彼はオレとエルミンのために大きな役を果たしてくれた。彼こそ、オレたちにとって代表チームの扉を開いてくれた人だと確信するよ」
雨後の筍のように育った大男
この時期のサフェトを、ボスニア代表監督であるミルザ・フルステモビッチも鮮明に記憶する。
「96年か97年、私のクラブの『スピード』がルカバッツに遠征に行ったんだ。あっちの監督の隣に子どもが座っている。『そのチビは誰だ?』と聞いたら、『これは、サーヨ(サフェトの愛称)だよ、うちの選手だよ』という。初めて見たときは、まだ子どもだった。その数年後、サラエボでの大会でルカバッツのクラブに、背の高い2人の若者がいる。雨後の筍のように、大男になっていた」
サフェトとエルミンだった。ミルザに明確なビジョンが浮かんだ。
「彼ら2人を見た瞬間、これを活かさない手はない。彼らを使ったチームを作りたいという、ビジョンが浮かんだんだ。そこで2001年、ハンガリーのヨーロッパ選手権の前、私は彼ら2人、エルミンとサフェトを代表候補リストに入れた。サフェトは12人の正式メンバーに入れてもいいと思った。エルミンは入れなかったが、観客席から試合を見せるために、サフェトを遠征に同行させた」
ハンガリーで、ミルザは驚きの行動に出る。
「サフェトの潜在能力の大きさを感じたんだ。それで、今考えると、自分でも理由はわからないんだが、決勝戦でサフェトに先発させるというチャンスを与えたんだ。彼に、まだその準備ができていないことはわかっていた。わざと第一セットを落とすつもりで出したんだよ。もちろん、そのセットは落とし、その後、われわれは追いつくんだが、サフェトにとっては実地体験としてプレッシャーはどんなものか、感じるいい機会になったと思う」
ミルザに才能を見抜かれたサフェトは、あっという間に表舞台に駆け上がる。ミルザが言う。
「サフェトは、試練を生き残ったんだ」
(C)Paralympic Documentary Series WHO I AM
ちょうどその頃、ミルザが監督を務める「スピード」が、野心的に選手を補強しようとなった。
「ルカバッツの関係者と話し合い、合意の上で、エルミンとサフェトを『スピード』に移籍させた。そうしたらあの二人は、サラエボに引越さないで、片道3時間、トレーニングのたびに車でサラエボにやってきて、終わったら、ルカバッツに帰るということをやり始めた」
ミルザの指導の下、サフェトはめきめきと実力を増し、ボスニア代表チームでも、チームの柱としてプレーするようになっていく。
内戦で足を失った選手、宗教上の制約で女性が活躍できない国に生まれたアスリート……。パラリンピアンには、時に五輪選手以上の背景やドラマがある。共通するのは、五輪の商業主義や障害者スポーツに在りがちなお涙頂戴を超えた、アスリートとしての矜持だ。彼らの強烈な個性に迫ったWOWOWパラリンピック・ドキュメンタリーシリーズ「WHO I AM」。番組では描き切れなかった舞台裏に、ノンフィクション執筆陣が迫る。