エルミンは、当時を振り返る。
「サフェトとのいい思い出はたくさんあるけど、最も大切な思い出として心に刻まれているものを一つだけ選ぶとしたら、エジプトでのオレたちにとっての最初の世界選手権かな。2002年、イランに勝って、代表チームが優勝した。イランに勝ったのは初めてで、試合の後はみんな歓喜に満ちていて、熱狂して……」
サフェトの胸にも、熱く刻まれている大会だ。初めて代表チームのユニフォームに腕を通したサフェト、このユニフォームだけは、今でも手元に残してある。
「公式試合で自分の国を代表するとき、試合だけでなく、準備など全てを決して忘れません。当時、オレは20歳だった。ボスニア・ヘルツェゴビナでは歓喜を持って見送られたのだが、エジプトに着くと、3対1でエジプトに負けてしまった」
その結果、準決勝でイランと当たることとなった。
「最初の試合に負けた時、そうなることはわかっていた。みんなで『どうなろうと頑張るんだ』と一致団結して臨んだ試合だった。運良く先に2セット取り、3セット目は9対19で負けていた。それを先輩たちや選手たちの経験のおかげでひっくり返したんだ。25対22だった。17年間、勝ち続けている強いイランを、王座から引きずり下ろしたんだ。ボスニア・ヘルツェゴビナのような小さな国が、大国イランに勝って決勝に進出したなんて、誰もが信じられなかったよ」
17年間、世界の王者として君臨してきたイラン。戦争が続いたことで障がい者が増えたことに加え、ポリオ対策の遅れで生まれつき障がいを持った子どもが増え、そのため、小さい頃からシッティングバレーに取り組むのが一般的になったことが、その強さの訳だ。ブラジルがサッカー強豪国であるのと同じ理由だ。
サフェトにとって初めてのパラリンピックは2004年、アテネだ。サフェト、23歳の秋だった。決勝の相手はイラン。セットカウント2対1で、イランが一歩リード。4セット目は19対24で、イランが5回目のマッチポイントを迎えていた。
「オレにサーブが回ってきて、自分たちのベンチとイランのベンチを見たんだ。イランのベンチは喜びに沸いていて、泣き出す人もいた。すでに金メダルが取れると思っていたんだ。でも、幸運はこっちにあった。27対25で4セット目を取り、5セット目でイランを破ったんだ。そして初めて、パラリンピックの金メダルを、ボスニアが獲得したんだ」
ミルザはサフェトを、物心両面で支えていく。
(C)Paralympic Documentary Series WHO I AM
「サフェトはとても早い成長を遂げた。後は、タイミングの問題だった。われわれはサラエボでサフェトに仕事を見つけて就職させることで、サラエボに引っ越してきて住むようにさせた。それほど、『スピード』と代表にとって、重要な選手だというわけだ」
サラエボで得たのは、オリンピックプールの職員という仕事だけではない。サフェトは妻となる女性と偶然、出会い、31歳で結婚、33歳の時に長女を授かった。
内戦で足を失った選手、宗教上の制約で女性が活躍できない国に生まれたアスリート……。パラリンピアンには、時に五輪選手以上の背景やドラマがある。共通するのは、五輪の商業主義や障害者スポーツに在りがちなお涙頂戴を超えた、アスリートとしての矜持だ。彼らの強烈な個性に迫ったWOWOWパラリンピック・ドキュメンタリーシリーズ「WHO I AM」。番組では描き切れなかった舞台裏に、ノンフィクション執筆陣が迫る。