人頭税と慰安婦の碑
与那国島の記事でも触れたように、この宮古島にも人頭税があった。島民たちは身長がこの人頭税石の高さを超えると重税が課せられたとの伝承がある。宮古島は15世紀に
1609年、薩摩藩が琉球侵攻を行い、その後の1637年から人頭税は始まる。
先島や八重山の島々を苦しめたこの人頭税は、琉球が日本に併合された明治時代以降も1903年まで続いた。廃止運動は島民や近隣の島々を巻き込んだ抗議運動となり、1894年、宮古島民たちは過酷な妨害を受けながら東京の帝国議会におもむき、請願書を提出し直談判を行った。彼らは帰郷後、島民総出でクイチャーを踊って迎えられたという(クイチャーとは宮古島に伝わる伝統舞踊で、祝いや雨乞いの際に行われる、集団で輪になる踊り。沖縄島のカチャーシーと大和の盆踊りの原型のような踊りだ)。
その請願から9年後の1903年、人頭税は明治36年に廃止された。薩摩が琉球を抑圧し、その抑圧がさらに辺境へと押し付けられる。人頭税はこの二重支配の象徴とも言える。
「本土」出身者たちには見えづらいが、沖縄島から島嶼部への差別を垣間見ることもいまだにある。例えば、私が10代から一緒にラップをやっていた友人の父が宮古島周辺の島の出身なのだが、数年前その友人が父の故郷を訪れた際にお土産に魚の干物を渡された。その魚を沖縄島、いわゆる沖縄本島の友人に土産として持っていくと、「宮古の魚はいらんなあ(笑)」という嫌な冗談を言われたという。
こうした差別感情は現在は解消されつつあるが、本土から沖縄、沖縄から島嶼部へと押し付けられてきた歴史がある。このような歴史を踏まえ、「本土」や「本島」そして「離島」という言葉の使用は現在、議論の対象となっている。また、基地問題や貧困について、辺境に押し付けられることについても構造的な差別であると、沖縄の島々を取材し私自身も認識するようになった。心情的な差別が解消されつつあっても、構造的な差別は残っている。そして加害側のマジョリティである私たち大和人がそこに無自覚であり続ける限り、この構造の解消は困難である。
陸上自衛隊宮古駐屯地と航空自衛隊分駐屯地に挟まれた上野
現在の航空自衛隊分駐屯地は、戦時中は陸軍の野原飛行場だった。山のない平らな地形から、この宮古島は旧日本軍の「不沈空母」構想の舞台となった。3本の滑走路や司令部などが置かれ、当時人口5万人だった島に3万人の軍人が流入した。それに付随して宮古島、伊良部島には16カ所の従軍慰安所が置かれたという。
平らな地形で隠れる場所がないこともあり、島民と従軍慰安婦との交流の記録も多い。マラリアに苦しむ住民がコリアンの慰安婦の薬で救われたとか、島で採れた唐辛子を彼女たちに分けると喜んでいたとか、交流の逸話は枚挙にいとまがない。井戸での洗濯を終えた慰安婦たちがこの場所で休息していたという島民たちの記憶から、この場所に記念碑が建てられた。
「日本軍による性暴力被害を受けた一人ひとりの女性の苦しみを記憶し、全世界の戦時性暴力の被害者を悼み、二度と戦争のない平和な世界を祈ります」という碑文が、日本軍による性暴力の被害を受けたオーストラリア、中国・台湾、グアム、インドネシア・マレーシア、日本、コリア、ミャンマー、オランダ、フィリピン、タイ、東チモールの11の言語と、さらにベトナム戦争時に韓国軍からの性被害を受けたベトナムも合わせ12の言語で記されている。
アリランの碑から東に300m。日本軍の野原飛行場は、戦後米軍に接収され米軍基地となり、1972年の復帰後に航空自衛隊分駐屯地として継承された。この周辺にはいまだにトーチカや地下壕などいくつもの戦跡が生々しく残っている。このような事実を現在の自衛官たちは果たして学んでいるのだろうか。沖縄戦と現在が途切れることなく繋がってしまう不安感がこの場所に来ると芽生える。
ちなみに消息を絶った陸自ヘリが飛び立ったのはこの空自分駐屯地からだ。
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