11 フラストレーションが抵抗に変わるとき
柴咲コウの存在感は、深作の他の映画に出てくるときの松方弘樹をどこか連想させる。
そもそも、深作欣二の他の映画を見ていると、光子と似た要素を持つキャラクターが頻繁に登場する。
どんな人物類型かというと、作品によって多少の違いはあるが、大ざっぱに言って、副主人公として描かれることが多く、主人公より一種、先鋭的な感覚を持つ人物で、危ういところや生き急いでいるかのような側面を持つ人物だ。深作映画のこういったキャラクターを「先鋭的な副主人公」と呼んでみたい。
「先鋭的な副主人公」は、これまで見てきた深作の「サヴァイヴ」のテーマの中では、川田の人物類型に見られた「時代に置いていかれた人物」としての主人公と同じように、より金や権力を持つ年長者に利用される、つまり「奪われる側」の人物なのだけど、そこから生じるフラストレーションを主人公より強く持っていて、それをバネに年長者たちに反逆しようとしたり、より強大な相手と戦ったりして、結局主人公より先に命を落とす。
このようなキャラクターは、先にもふれた『仁義なき戦い』1作目に登場するヤクザの坂井、『県警対組織暴力』の広谷など70年代の作品から、80年代以降も『道頓堀川』の佐藤浩市が演じた副主人公の武内政夫(この人物は死なないが)など、時期を問わず深作の映画に登場する人物類型だ。
「先鋭的な副主人公」は、主人公や周りの人間には手に負えない部分のある、狂犬的な要素を持ち、ある面ではひとつの「悪」とさえ言える人物だ。しかし深作は、それを「悪」であることは変わらないけれど、金や権力を握る年長者たち、「奪う側」の人々の「悪」とは違い、かれらに搾取される若者たち、「奪われる側」がそこを抜け出すために「奪う側」に回ろうとするときに出てくるもの、「奪われる側」のフラストレーションから生まれる「悪」として、同情的に描いているように思える。
ここで、深作作品には、光子のような「先鋭的な副主人公」と同じ要素を持ちながら、そのキャラクターが主役になってしまう場合もあることに目を向けたい。
例えば松方弘樹が主演する『恐喝こそわが人生』(1968)の主人公村木駿や、同じく松方主演による『北陸代理戦争』(1977)の主人公川田登などにそのような側面が見られる。
『恐喝こそわが人生』の村木は、新宿のチンピラで同世代の仲間たちと恐喝屋をやり、政界の大物や有名な高利貸しを相手に恐喝しようとし、最後は殺し屋に有楽町の路上で刺され、死んでしまう。ラストは「馬鹿にしやがって~~」という松方の恨みの独白が響き渡り、インパクトがある。この主人公は、恐喝というチンピラなりの手法をもって大物に挑もうとする、独特な気概を持ち、その姿は川面に浮かぶドブネズミの死体に重ねられている。
『北陸代理戦争』の川田は、北陸の地元ヤクザ富安組の若頭で、組長に反逆するだけでなく、大勢力を持つ大阪のヤクザに対し、「勝てないまでも、刺し違えることはできる」「虫けらにも五分の意地」と言い放ち、北陸の地元ヤクザのしぶとさが描かれる。
こうした主人公たちは、より強く、権力を持つ相手に対し、「窮鼠猫を噛む」と言う場合のネズミのように、「おれをいじめると痛いぞ」と言い、劣勢であることからくるフラストレーションの鋭さを懐刀のように抱えつつ、抵抗を試みている。
ぼくには、かれらの姿は、光子のような「奪われる側」のフラストレーションを抱える人物が、「奪う側」に回ろうとするのではなく、その激情を「奪う側」の大人たちに対して、ひとつの刃として向けるとき、それはただ「奪う側」に回ろうとするのとは違う、ひとつの抵抗になりうるのかもしれないという、ひとつの可能性を示していると感じられた。
ところで、深作は94年の『忠臣蔵外伝 四谷怪談』を撮る前に前立腺がんが見つかり、『忠臣蔵外伝』が終わった後、辺見庸のルポルタージュ『もの食う人びと』(1997年、角川文庫、初刊は1994年)のドキュメンタリーを撮っている。ぼくはまだ深作のこの『20世紀末黙示録 もの食う人びと』(1997年に名古屋テレビ開局35周年の記念番組として撮影された)を見られていないのだが、チェルノブイリ篇、エイズを扱ったウガンダ篇、元従軍慰安婦を扱った韓国篇からなる内容という。山根貞男が深作に聞いたインタビューで、チェルノブイリ原発事故後に周囲の土地から一度追い出された農民たちがまた戻ってきて、放射能汚染区域となった自分の土地に居着いていることに興味をひかれたと深作が話していることに目がとまった。深作によれば、その農民たちは、周辺で「サマショール(強情な人々)」と呼ばれているという(サマショールを「自主帰還者」と訳すこともあるらしい)。
深作の言い方にならってみると、『恐喝こそわが人生』『北陸代理戦争』に見られる抵抗とは、「奪われる側」であることからくるフラストレーションをさらに一歩前向きなものとして捉え直した、「強情さ」を基礎に据えた抵抗と呼べるんじゃないかと思った。
光子の示す「奪われる側」のフラストレーションが、「奪う側」に向けられたとき、それは「強情な者たちの抵抗」と言えるものに変わるのかもしれない。
30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。