おわりに───遺骨にやどる熱
おととし(2018年)スペインにいる間、ぼくはよく戦争中に青少年期を過ごした日本の著作家の本を読んでいた。
堀田善衞、小田実、鶴見俊輔、野坂昭如…。何の気なしに、時間はいっぱいあるだろうから、読んだことのない本をこの機に読もう、とスーツケースに文庫本を入れ、日本から持ってきていたのだ。
で、読んでみると、意外にもしっくりくるものがあった。「しっくり」というのは、ぼくはいまの日本の色々な問題にうんざりして、全然生活スタイルの違うスペインへ行ってみたわけだが、ぼくが嫌だった日本の問題の根っこが何なのか、堀田や小田のような上の世代の人たちの文章から教えられる面があったからだ。
日本のいまの問題は、ここ20年、30年のことではなくて、もっと以前からの視点を持たないと、うまく捉えられないだろうという気がした。
ぼくがスペインから帰ってきて、深作欣二の『バトル』をもう一度見たい、と思ったこともこれと通じるところがある。戦後復員兵の若者たちがヤクザになる姿を描いた『仁義なき戦い』の深作欣二が、「校内暴力」や「不登校」のテーマとも重なる『バトル』を撮ったことは、上の世代が見た日本のおかしさと下の世代が直面した日本の諸問題とをつなげて捉える視点を与えてくれるように思った。
映画『バトル』から20年が経ち、「サヴァイヴ」だらけの日本社会で暮らすぼくたちは、この作品からどういうことを受け取れるだろう。
ひとつには、「サヴァイヴ」は必ずしも新しい状況ではなく、日本に以前から存在した状況なんじゃないか、と捉える視点が得られると思う。
これは、たまたま自分の生きている時代は、悪くなってしまった、とりあえずはこの当面の苦境を自分の力で乗り越えないと、と問題を個人の枠に狭めて考えるのではなく、「サヴァイヴ」を長い時間続いてきた問題として、歴史や社会構造といった別の側面から考えるきっかけを与えてくれるんじゃないか。
もうひとつは、最初にふれた「サヴァイヴ」の問題点とつながるけど、いまの社会で肩身の狭い思いをしている人たちが競争の勝者にあこがれたり、自分もそちら側に立とうとして、「奪う側」に回ろうとしてしまう場合、どうすればその人は「奪う側」に抵抗することができるようになるのか、についてヒントを与えてくれる面があるということ。
深作の「強情な」キャラクターたちに目を向けると、「奪われる側=みじめな側」ではいたくない、と感じ、そこにフラストレーションが発生すること、そのこと自体はそれはそれとして認めてもいいんじゃないかという視点があった。そのフラストレーションを自分以外の「奪われる側」に向けるのでなく、「奪う側」にぶつけることで抵抗が生まれる、という視点が見られた。
最後に三つめ、これが一番重要な点だと思う。
『バトル』では、死んでいく者たちの表情や言葉、「限定された生」、そういった要素に目を向ける視線があった。
この映画には、日本の戦後というこれまでの時代の中で「不適応」とされた人物たち、もしくは、戦後という時代につぶされていった色々な可能性、そうした者たちへの鎮魂歌としての側面があると同時に、じつはそのようなつぶされた可能性たちは、まだどこかに散らばってかすかに呼吸を続けているんじゃないか、という「サヴァイヴのその後」に目を向ける視点があるような気がした。
「サヴァイヴ」とは、最初に説明したように、普通は、その競争で敗れた者たちは死んで終わり、だから死なないように生き残ろう、という発想だと思うが、ぼくは『バトル』を見るうちに、じつはそうじゃないんじゃないか、と思えてきた。
「サヴァイヴ」で敗れ、「死んだ」人たちの表情や言葉、最期の瞬間に見せた生の感覚は、本人たちが「死んだ」ことになった後も、どこかに燃え残っている、という感触がある。だからこそ、『バトル』の川田のような深作映画のキャラクターたちは、その「燃え残り」を探そうとするんじゃないか。
そう考えたとき、ぼくはシリーズ3作目『仁義なき戦い 代理戦争』(1973)の最後の場面が頭に浮かんだ。この映画の終盤、主人公広能の弟分である若い青年倉元猛(渡瀬恒彦)が兄貴分にだまされ、敵に返り討ちにされて命を落とす。その葬式で広能が倉元の骨壺を運んでいるとき敵から襲撃を受け、路上に遺骨が散らばってしまう。組員たちが骨を拾おうとすると、その骨にはまだものすごい熱がこもっていて触れない。広能は、熱がくすぶる遺骨をこぶしでぎゅっと握りしめ、苦々しい表情を浮かべる。
ぼくには、『バトル』の「サヴァイヴ」観から見えるのは、この倉元の遺骨にくすぶっている熱の感覚のようなもので、それはいわば、「サヴァイヴ」で敗れ、死んだことにされた者たちは、どこか死にきっていない、そこにはまだ「サヴァイヴ」の構造そのものへ刃を向ける、生き残らなかった者たちの持つ可能性がねむっているんじゃないか、そういう直感がある。
───次回は、これまでの「サヴァイヴ」的な考え方の中で排除され、「死んだ」ことにされたものたちは、その後どうなったのか、それらのつぶされた様々な可能性は、いまの社会でどのように「燃え残っている」といえるのかを考えていきたい。ぼくはこうしたことを掘り下げる中で、「サヴァイヴ」に正面からぶつかる別のものの考え方として、「死にながら生きる(リビングデッド)」という言い方が出てくるんじゃないか、といま思っている。
※文章中でふれた深作欣二監督作品(時系列順)。
『博徒解散式』(1968)
『恐喝こそわが人生』(1968)
『仁義なき戦い』(1973)
『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973)
『仁義なき戦い 代理戦争』(1973)
『仁義なき戦い 完結篇』(1974)
『県警対組織暴力』(1975)
『北陸代理戦争』(1977)
『柳生一族の陰謀』(1978)
『赤穂城断絶』(1978)
『道頓堀川』(1982)
『蒲田行進曲』(1982)
『忠臣蔵外伝 四谷怪談』(1994)
(TV)『20世紀末黙示録 もの食う人びと』(1997)
『バトル・ロワイアル』(2000)
『バトル・ロワイアル 特別編』(2001)
『バトル・ロワイアルⅡ 【鎮魂歌(レクイエム)】』(2003、監督:深作欣二、深作健太)
30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。