8 「よけいなお世話だ」という違和感
深作欣二のインタビューを読んでみると、深作映画の中に見られる「時代・社会の変化」とは、深作が戦争直後に感じた、戦後の日本社会への違和感がもとになったモチーフなんじゃないかと思えた。
深作は、山根貞男によるインタビューで、戦後、イタリアの映画監督ロベルト・ロッセリーニの映画を見たことで「抵抗」という感覚を教えられたといい、ロッセリーニへの共感を語りつつ、戦後間もない頃に自分が感じた感覚を次のように話している。
(…)焼け跡のなかに放り出されて俺たちは何をするねんとなったときに、あんなに簡単に万歳突撃をやらされてやっと生き残ったところで、さあ、これからはもう平和のために生きろと言われて、「何を言うてるんだ、よけいなお世話だ」という気持ちにつながるものとして、自分の場合はいわゆる左翼的抵抗というよりはもうちょっと捻くれた形のほうがしっくりするというようなことはあった。
『映画監督 深作欣二』133~134頁
深作欣二は1930年に現在の茨城県水戸市で生まれ、日本が戦争に負け、終戦したときちょうど『バトル』の主人公たちと同じ15歳の少年だった。この年には、勤労動員で通っていた兵器工場が爆撃され、翌日死体の片付けに従事してもいる。ここで深作が語っているのは、戦時中の「万歳突撃」はおかしい、しかし、戦後は戦後で「平和のために」という主張が中身をともなう変化によるものではなく、表面的な標語のようなものとして流布され、それはそれで違和感がある、ということなのではないか。
そう思えるのは、この深作の言葉が、例えばシリーズ5作目『仁義なき戦い 完結篇』(1974)の一場面と重なるからだ。『完結篇』の冒頭では、警察の目を欺くために広島のヤクザたちが団結し、政治団体「天政会」に衣替えし、街路で「民主主義」を呼びかけたり、「永久平和」「福祉国家建設」などと書かれた横断幕を持ってデモ行進する姿が描かれる。格好はヤクザのままで、口から出まかせなのだけど、その姿には、戦後日本の変化とは何だったのか、と考えさせるものがある。
インタビューのべつの部分(215頁)では、深作が戦後間もなく出てきた闇市の喧騒に共感を持った一方で、「七〇年代になると、本当に世の中が綺麗に綺麗になってましたからね。それに対する苛立ち、違和感みたいなもの」があったとも語っている。
こうしたことを踏まえると、深作の映画で「時代に置いていかれた人物」が主人公とされるときの、また「時代や社会に見捨てられた人物」についてまわる「時代・社会の変化」とは、戦争が終わり、戦後が始まる際の日本社会の変化のことだったとぼくには思える。
30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。