スペインから帰国し、新たに「なんでもない人」の視点から映画や小説などの作品、社会を捉えた連載「はしっこ世界論」。そのA面で「気張らない文化批評」を目指す「『無職』の窓から世界を見る」第2回は、二つの深作欣二作品『バトル・ロワイアル』と『仁義なき戦い』を取り上げる。日本に根づく「サヴァイヴ」の思想と、対抗言論の可能性とは。
1 生き残らないといけないの?
「サヴァイヴ」という言葉を意識したことはあるだろうか。
この言葉は、元々英語では「生き残る」という意味なのだけど、いつからか日本社会の世知辛さを象徴するひとつの用語として、時々使われるのを目にするようになった。
どういう意味で使われているかというと、これからは厳しい世の中なんだから、何か資格や能力を身につけ、他人に勝って生きるんだ(!)、というようなニュアンスをもって使われている気がする。
ぼくは、この言葉には前から大きな違和感を持っていた。理屈はともかく、その内容には、どことなくいじわるい、マッチョな響きがあると思えたからだ。
昨年スペインへの1年間の語学留学から戻り、また東京の実家で暮らし始めると、色々なところでこの「サヴァイヴ」または「生き残る」といった言葉を耳にし、なんか窮屈だなあ、と思った。
帰国後、ぼくはある大学の日本語教師養成のための公開講座に通い始めた。将来海外で働きたい、長時間労働などの多い日本でなくても働く手段を持っておきたいと思い、日本語教師でもやってみようか、と思ったのである。
で、講座自体はとても面白く、今年の3月に無事修了できたのだけど、「おや」と思ったのは、代わる代わる講座で話してくれる研究者や教育の専門家の人たちの口から、「~をできないとこの業界では生き残れない」「生き残るためには~」などといった言葉が出てきたことだった。
本人たちは深い意味はなくその言葉を使ったのだろうけれど、それにしても学問系のリベラルな人たちの口からこうもスルリと、自然に「生き残る」という言葉が出てくるとはなあ、と驚いた。
いまこうした「生き残る」という言葉にあらわされた、ヒリヒリした人生観は、無意識的な形でぼくの前後の世代、20代から40代くらいの人たちには広まっている気がする。
ぼくの周りには、ひきこもりやニート、ひどい職場で働かされた人、マイノリティ的な事情を持つ人など、いまの日本で肩身の狭い思いをさせられている人がけっこういるのだが、そんな人たちの中にさえ、この「サヴァイヴ」的な考え方がかなりの程度浸透していて、多くの問題が引き起こされていると感じる。
例えば、日本での働き方に違和感を持った人たちの間で、田舎や海外に移住しようとしたり、フリーランスの仕事やNPOで働いてみようとする動きが出てきていると思うけれど、そうやって活路を見出そうとした先でも働きすぎたり、他人と競争したりして、すり減ってしまう、そんな本末転倒な光景を目にすることがこの数年多かった。また、ひきこもりやマイノリティの人が、なぜか右派の「カリスマ政治家」や競争主義肯定の「やり手起業家」に惹きつけられてしまっていることもざらにある。
「サヴァイヴ」の問題点は、「社会のここがおかしい」と気がついた人が、「じゃその問題をどう解決していくか」という方向に向かわずに、結局「どう能力をつけて他人に勝つか」という元々自分が嫌な目にあった方向に回収されていく、一種の悪循環を生み出すことにあると思う。
ノンビリただ普通に生きたい、そんな風に構えていても、東京に戻るとかなりの頻度でこの「サヴァイヴ」的な価値観と対面せざるを得ない。そんなことが思えモヤモヤしていると、なぜか、もう一度あれが見たいなあ、という映画がひとつ出てきた。それは、深作欣二が監督した『バトル・ロワイアル』(2000)。
『バトル・ロワイアル』…。ひと昔前の映画だけど、見たことはあるだろうか。
ぼくが小学5年生だったとき、『バトル・ロワイアル』が公開され、ニュースなどでよく騒がれていた。中学生たちがある孤島へ連れていかれ、大人たちから強制され、殺し合いゲームをやらされる内容の映画で、なぜメディアで取り上げられていたのか、詳しい事情はよく分からなかったけど、暴力的で子どもは見ちゃいけない云々という話なんだろうな、とだけ理解していた。
それから数年後、中学生のとき、映画好きの父がレンタルビデオ店でこの映画を借りてきて、親子でなぜか『バトル・ロワイアル』を見た。ヒロインの女の子(前田亜季)と教師(ビートたけし)が同じ夢を見て、夢の中二人で河原を歩く場面が印象的で記憶に残っている。終わりまで見た後、「普通に中身のある映画じゃないか」と思え、なぜこれが騒ぎになったのか分からず、不思議に感じた。
さて、昨年家のテレビで久しぶりに頭の片隅にあったこの『バトル・ロワイアル』を見直したところ、「サヴァイヴ」という言葉と関連して、色々考えさせられるものがあった。
この映画は、「サヴァイヴ」のテーマを描きながらも、世間で見たり聞いたりする考え方とはまったく違う観点を与えてくれる作品だと思えた。
監督の深作欣二は、1930年に生まれ、1970年代に『仁義なき戦い』(1973)というヤクザ映画を撮り、以後「実録ヤクザ映画」の監督として知られるようになった人。80年代以降は大作、エンタメ作品を多く撮ったが、晩年になぜか中学生42人の殺し合いを描く、この『バトル・ロワイアル』を撮り、国会で批判的に取り上げられるなど物議をかもした。続編の『バトル・ロワイアルⅡ 【鎮魂歌(レクイエム)】』(2003)の撮影が始まった初期に、闘病中だったがんが悪化し、2003年に亡くなった。
ぼくは深作というと、ヤクザ映画の人、というイメージがあったし、映画好きの人たちの間では「バイオレンス」や「アクション」の監督とみなされてきた。でも、今回久しぶりに『バトル・ロワイアル』を見直し、またいくつかその監督作を見てみると、どうも「若者同士の殺し合い」、一種のサヴァイヴ的なテーマをずっと追いかけてきた人だったんじゃないか、と思うようになった。
『バトル・ロワイアル』から伝わってくる、普通とはまったく違う「サヴァイヴ」の捉え方。
そこから何か受け取れるものがあるんじゃないか。今回は、深作欣二の2000年の映画『バトル・ロワイアル』を振り返り、深作のほかの映画とも照らしながら、いまの時代の「サヴァイヴ/生き残り」について考えてみたい。
30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。