はしっこ世界論 “祖父の書庫”探検記 第4回

戦後といまを考えるための1冊

飯田朔

奇妙なおだやかさ

 『バスラ―の白い空から』を読んで最初に思ったのは、これが祖父と同世代の会社勤めをしていた人が書いたものとは思えないほど、みずみずしく、また奇妙におだやかな情景描写がなされているということだった。もちろん世代や立場に関係なく、そのような文章が書ける人はいるだろうが、この人の場合、風景描写と彼自身がかつて戦争に動員された若者であったという過去とが重なり、独特な空気感を作り出しているように思えた。

 この本に収録されているエッセイで、佐野はアメリカや西アフリカ、またタイトルにもなっているイラクのバスラ空港などで出会った人々や事物について描いているが、その文体から感じるおだやかさは、単に著者の人柄からそう感じられるというだけではない、ある種の奥行きがある。

 最初のエッセイ「わがセバスチャン」は、佐野が駐在先のアメリカで子犬を買い取り、その犬をセバスチャンと名付け、妻と息子とともに暮らし始めるが、以後家族や仕事に関して度重なる不幸に直面し、彼が言い知れぬ不安を抱えながらも、子犬の成長と共に時を歩んでいく過程が静かに綴られる。

 佐野の文章のおだやかさとは、例えば次のような部分に見られるものだ。「わがセバスチャン」の冒頭、佐野はブリーダーから子犬を受け取り、空港で帰りの飛行機を待っている。その間、かれの目には様々な人や事物の姿が入り込んでくる。少し長くなるが、引用してみよう。

 その空港に朝一番の便で到着し、午後おそくまで帰りの飛行機を待たなければならなかった私は、この小さな宝ものを両手の掌で包むようにして膝に抱えながら、空港ロビーのソファーに座り続けていたのだが、たくさんの人々が通りすがりに彼を撫でたり、あるいは私がそこに座り続けているわけを尋ねたりした。そうであろう。遠いヴァージニアの空港で、東洋人が黒い仔犬を抱いて座っているさまは、さだめし奇妙な情景だったであろう。
 空港の大きなガラス越しに目にうつるのは、広大な雑木林の中に点々と咲き出した北米の早春の花、はなみずきの白いむらがりであった。長時間抱えられてすっかり温まってしまった仔犬を抱きあげた通りすがりの娘さんが、「オ、 ディス イズ ホット ドッグ!」と高い笑い声をあげた。
                            

『バスラ―の白い空から』12頁

 ここでは膝の上の子犬、空港を行きかう無数の人々、窓から見えるはなみずき、高く笑う「娘さん」といった、佐野の目に映る人々、事物が描かれているが、それらはどこか回想の中の空港という、不思議にあたたかい空気に包まれている。佐野自身が過去の思い出の中に存在する空港に入り込んで、人や風景を眺めているような、浮遊した時間感覚がある。彼が遺した数少ないエッセイにはどれもこうしたトーンが貫かれている。

 しかし、このおだやかな語りを支えているのは、一見それとは反対のものに思える、ある種の不安の感覚なのではないかとも思った。

 佐野のエッセイでは、愛情や親しみの対象がおだやかな筆致で描かれると同時に、彼にとっての不安やおそれといったものも随所で描き込まれている。

 例えば、エッセイ「西アフリカの春」に出てくる、駐在先の西アフリカの雨期の様子には、先の空港とは正反対の、自然の激しさや不穏な空気感が書かれている。

 春はいつの間にか終り、ハイビスカスなどの花群をふるわせるようにして、雨期が来た。長雨が何日も続き、その合間に、非常に強い雨が襲ってくるようになる。 (…)
 こういう時、街外れの森林地帯もまた、薄気味のわるいありさまとなる。ただでさえうす暗い木々の蔭は、妖気がこもったようになり、その水浸しの大地には、何か巨大ななめくじのようなものが、無数にうごめいているのではないかとさえ感じられるのであった。

同33頁

 この西アフリカの雨期の描写は、日本人の駐在員たちが現地で直面する生活の過酷さということと重ねて描かれている。エッセイの各所には、このような強烈に空気や音、匂いといったものまで感じさせる、生々しい描写が存在する。

 読んでいて感じたのは、おだやかさと不安という二つの要素は、佐野が書いたエッセイの中ではつながったものになっているということだった。それが現れているのは、犬のセバスチャンに関する描写だ。佐野は空港の場面で書いていたように、子犬をあたたかな目線で見つめるが、それと同時にセバスチャン自体にその後佐野が直面することになる「不幸」や「老い」を投影する場面も出てくる。

 おだやかな状態というのは、普通は不安や恐れがなくなり、安心したり、落ち着いた状態にあるものだと思う。それがどういうわけか、この人の場合は不安や恐れといった要素と一緒にごく自然に描かれている。そこが非常に印象深いのである。

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 “祖父の書庫”探検記 第3回
はしっこ世界論

30歳を目前にして、やむなくスペインへ緊急脱出した若き文筆家は、帰国後、いわゆる肩書きや所属を持たない「なんでもない」人になった……。何者でもない視点だからこそ捉えられた映画や小説の姿を描く「『無職』の窓から世界を見る」、そして、物書きだった祖父の書庫で探索した「忘れられかけた」本や雑誌から世の中を見つめ直す「“祖父の書庫”探検記」。二本立ての新たな「はしっこ世界論」が幕を開ける。

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プロフィール

飯田朔
塾講師、文筆家。1989年生まれ、東京出身。2012年、早稲田大学文化構想学部の表象・メディア論系を卒業。在学中に一時大学を登校拒否し、フリーペーパー「吉祥寺ダラダラ日記」を制作、中央線沿線のお店で配布。また他学部の文芸評論家の加藤典洋氏のゼミを聴講、批評の勉強をする。同年、映画美学校の「批評家養成ギブス」(第一期)を修了。2017年まで小さな学習塾で講師を続け、2018年から1年間、スペインのサラマンカの語学学校でスペイン語を勉強してきた。
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