近隣諸国やマイノリティへの敵意を煽り、攻撃することで政治にまつわる不都合、問題から、不満をいだく民衆の目をそらさせる手法は古来、たびたび繰り返されてきた。
同時に、そうした姑息な政治的方便が、本物の憎悪(ヘイト)を生み出し歯止めがかけられなくなったとき、不条理で悲惨な弾圧や虐殺が引き起こされてきたことは歴史の常である。
これは現代日本も例外ではない。政治家、官僚、公共機関の長から一般にいたるまで。この国を蝕んでいるこの風潮の深層に、反骨のジャーナリスト青木理が切り込む。
撮影(前川喜平氏)=宅間國博
第三回 「日本人の自覚」を求めるとむしろヘイトを煽る
元文部科学事務次官・前川喜平氏に訊く③
道徳という分野に持ち込まれた検定教科書という制度
――道徳の教科化についてもう少しうかがわせてください。2018年4月から全国の小学校で道徳が教科になったとはいえ、その位置づけは非常にあいまいですね。国の検定を受けた教科書が使われ、通知表などでの評価制度が導入されたとはいえ、5段階などの数値ではなく記述式で評価する。また、特別な教員免許も必要ない。教科に必要な3点セットを満たしているわけではありません。
前川 だから先生は誰でも道徳が教えられることになります。要するに、教科の要素を一部取り入れたものの、教科そのものではないので、「特別の教科」と呼んでいるわけです。では、ほかにどのような「特別の教科」があるかといえば、道徳しかない。つまり、正式な教科そのものになったわけではない。これを私はウマとシマウマの関係だと言っているんです。決してウマになったわけではなく、ウマに似ているシマウマにしただけの話(笑)。唯一、教科と共通しているのは検定教科書の使用義務を課したことです。
――しかし、それも問題が多いですね。
前川 ええ。検定教科書という制度を道徳という分野に持ち込んだのは本当に正しかったかどうか、やはりきちんと問い直されなければいけないと思います。というのも、別の意味で教科とは何かといえば、人類が営々と積み重ねてきた学問の集積、たとえば自然科学や社会科学、人文科学といった学問や文化の集積があるわけですね。それを年齢段階に応じて整理し直し、料理し直して、系統的に勉強できるようにしたものが教科であって、その教科の中身を勉強するためのエッセンスを記載したものが教科書です。
したがって教科書の記述の背景には、人類が積み重ねてきた学問や文化の存在があり、それに基づいて検定は行われる。ただし、自由な学問の世界の中で大方の人が認めている真理とか真実というものがあったとしても、絶対的な真理とか真実というものはないわけです。いま現在、真理や真実に一番近いのはこれだという学問状況を踏まえて行われるのが検定制度の基本的な考え方。たとえば、歴史学などは古代史の史実がひっくり返ることがある。わかりやすいのは、日本最古のお金です。かつて私たちは「和同開珎」と習いましたが、現在は「富本銭」です。これは「和同開珎」よりも古いお金が見つかったからです。では、果たして道徳にはこれが真実に最も近いといえる学問の集積のようなものがあるのか。ないでしょう。また、私個人の考えを言えば、公教育における道徳教育の基準たりうる価値体系は憲法しかありません。憲法が求める価値というものをはみ出すことは、国家としてはできないはずなんです。
――ええ。国家権力の行使をしばる立憲主義の原則から言えば、国家はそのようなことをできないし、してはいけないはずです。
前川 しかし、現在の道徳教育というのは立憲主義からはみ出しっぱなしです。国は憲法で与えられた権能より外に出られないとするなら、平和主義とか基本的人権の尊重とか国民主権とか、その根っこにある個人の尊厳といったような価値体系の枠内であれば、国がこれを学校で教えるよう求めることはできます。法のもとの平等であるとか、差別をしてはいけないとか、そういうことを教えるのは構わないし、むしろ積極的に教えるべきことでしょう。だけど、これを逸脱するような道徳について国が学校で教えろと学習指導要領で決めるのは、完全な越権行為だと私は考えます。なのに、完全にはみ出たことをやっている。1958年に「道徳の時間」ができてから、ずっとやってきているわけです。「親を敬え」などと平気で。どう考えても敬えない親だってたくさんいると思うんですが。
――同感です。「国を愛せ」「愛国心」などもそうですね。
前川 国を愛せとか、郷土を愛せとか、そんなことも憲法の価値からは出てこない。だから憲法を変えろと言う人がいるんでしょうけれど(笑)、少なくとも現憲法の中からは出てきません。それに学習指導要領には「法的拘束力がある」と言っているんですから、憲法からはみ出したことを道徳教育として押しつける権限が本来、国にあるのかという問題を真剣に考えるべきでしょう。もし道徳教育が可能だとするなら、しかも公教育として学習指導要領のもとでやるとするなら、絶対に憲法の価値からはみ出してはいけない。
そう考えていくと、人権教育や平和教育、主権者教育といったものは道徳教育として立派に成り立つでしょう。それは道徳教育というよりも「シチズンシップ教育」と呼んだ方がいいかもしれませんが、そういうものを学習指導要領の中で学校は必ず教えなさい、ということはできます。ほかにも地域社会や家族制度の中に残っている憲法にそぐわない悪習とか、部落差別や在日コリアンに対するヘイトスピーチをなくすための教育などは、むしろ公教育が積極的にやるべきものだと私は考えます。
――それも同感ですが、愛国心などを強調する現在の道徳教育は、逆の方向に作用してしまいそうですね。
前川 日本人としての自覚を求めるなどというのは、むしろヘイトを煽る作用をもたらすでしょう。そもそも最近は、新入生の半数以上が外国籍だという小学校だってあるんです。「日本人の自覚」なんていうものを振りかざしてどうするんだと思うんですが。
近隣諸国やマイノリティへの敵意を煽り、攻撃することで政治にまつわる不都合、問題から、不満をいだく民衆の目をそらさせる手法は古来、たびたび繰り返されてきた。 同時に、そうした姑息な政治的方便が、本物の憎悪(ヘイト)を生み出し歯止めがかけられなくなったとき、不条理で悲惨な弾圧や虐殺が引き起こされてきたことは歴史の常である。 これは現代日本も例外ではない。政治家、官僚、公共機関の長から一般にいたるまで。この国を蝕んでいるこの風潮の深層に、反骨のジャーナリスト青木理が切り込む。
プロフィール
前川喜平(まえかわ・きへい)
1955年奈良県生まれ。元文部科学事務次官。2017年に退官。著書に『面従腹背』(毎日新聞出版)、共著に『ハッキリ言わせていただきます!黙って見過ごすわけにはいかない日本の問題』(谷口真由美氏との共著/集英社)、『これからの日本、これからの教育』(寺脇研氏との共著/ちくま新書)、『同調圧力』(望月衣塑子氏、マーティン・ファクラー氏との共著/角川新書)等多数。
青木理(あおき・おさむ)
1966年長野県生まれ。ジャーナリスト。共同通信社社会部、外信部、ソウル特派員などを経て、2006年フリーに。著書に『日本会議の正体』(平凡社新書)、『安倍三代』(朝日新聞出版)、『情報隠蔽国家』(河出書房新社)、『日本の公安警察』(講談社現代新書)、共著に『スノーデン 日本への警告』『メディアは誰のものか―「本と新聞の大学」講義録』(集英社新書)等がある。