トランプ時代の「お隣のヒーロー」|『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』『ジョーカー』「マトリックス」シリーズほか
「ダークナイト」三部作と左派ポピュリズム=神的暴力
このことは、本連載第2回で論じた『ダークナイト』(2008年)と、その続編である『ダークナイト ライジング』(2012年)との関係にも見て取れるだろう。『ダークナイト』で提示された、「法の外にいるからこそ正義をもたらしうるヒーロー」という伝統的なヒーロー像は、ここまで述べたようなトランプ時代の、右と左のポピュリズムの区別がつけがたくなった時代においては、維持不可能になるだろう。そのようなヒーローは本当に「闇落ち」してしまうかもしれないのだから。
実際「ダークナイト」三部作の第三作『ダークナイト ライシング』の悪役ベインは、そのような「闇落ち」の可能性を体現する。彼はバットマンがその技を学んだラーズ・アル・グール(『バットマン ビギンズ』の悪役)の門下であり、前作のバービー・デントの秘密を暴いて囚人たちを煽動し、支配層や上流階級に対する反乱を起こしてゴッサム・シティを占拠する。このとき、『ジョーカー』においてそうであったように、バットマンやウェイン産業はその上流階級の象徴である。
思想家のスラヴォイ・ジジェクは、『2011──危うく夢見た一年』(航思社)の日本語版への序文で、このベインを(タイラー・オニールを引用しつつ)「究極のウォール街占拠者」として評価できるか検討している。つまり、ここまでの議論で呼んだところの左派ポピュリズムの先導者として評価できるかどうかということだ。
ジジェクは思想家のヴァルター・ベンヤミンの「暴力批判論」での議論を援用して議論を進める。少々回り道になるが、本連載での議論の整理にもなるので紹介しよう。
ベンヤミンは「神話的暴力」と「神的暴力」を区別している。簡単にまとめれば、「神話的暴力」とは制度やシステムを維持するための暴力であり、「神的暴力」とは制度そのものを変更するような暴力のことだ。
『ダークナイト』について述べた、「法の外にいるからこそ正義をもたらしうるヒーロー」は、この二種類の暴力の観点では、少し複雑な手続きを踏んでいる。
つまり、法の外に出る時点で、バットマンは神的暴力の世界に踏み出すかのように見える。ところが、最終的には、彼は法の外側に出るがゆえに(『ダークナイト』であればハービー・デント殺害の罪をかぶることによって)法の内側の秩序を守ることができるのである。
私がここまで論じてきたアメリカ的ヒーローの基本型はそのように言い換えることができるのだ。つまり、一旦は神的暴力の行使者となるように見えつつ、結局は神話的暴力(新たな正義の秩序の確定)へと舞い戻っているということだ。
だがジジェクは、神的暴力(左派ポピュリズム)と神話的暴力(右派ポピュリズム)の区別をすることにあまりにも躍起になっているように、私には思われる。『ダークナイト』と『ダークナイト ライジング』(そして『ジョーカー』)の重要性はむしろ、それらが区別できない不気味さを提示したことではないだろうか。トランプ以後であるからこそ、そこは強調されるべきだ。
ただ、それらの区別をしてしまうことで物語に解決をもたらしてしまったのは、論じるジジェクというよりは作品そのものなのかもしれない。『ダークナイト ライジング』のベインは結局のところ民衆権力の象徴ではなく「狂信的テロリスト」という表象を与えられてしまう。それは、彼が右派ポピュリズムの人となったというよりは、作品そのものが右派/左派のポピュリズムの接近という、危険だけれども現代の政治を考えるにあたって重要な論点を手放してしまったということだろう。
『ダークナイト ライジング』は、ゴッサム・シティを爆破してしまう核爆弾(核融合エネルギー装置)を、バットマンが身を賭して洋上で爆破させることで解決する。「正義」は自己犠牲という徳によってバットマンの側のものとなる。しかも、最後の場面では彼が生きていることが示唆される。
MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。
プロフィール
(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。