現代社会と向き合うためのヒーロー論 第4回

トランプ時代の「お隣のヒーロー」|『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』『ジョーカー』「マトリックス」シリーズほか

河野真太郎

『マトリックス』とレッド・ピル

 『マトリックス』の主人公トーマス・アンダーソンは、昼はコンピューター・エンジニア、夜は「ネオ」のコードネームで活躍するハッカーである。ある日、ネオは奇妙な訪問者たちに、この世界についての衝撃的な真実を知らされる。ネオが世界だと思っていたものはコンピューター・プログラムによって作りだされた仮想現実であり、彼の本当の身体は、人工知能を持った機械たちが支配する現実世界で、機械にエネルギーを供給する生体発電装置として機械につながれているというのである。

 ネオは青い薬(ブルー・ピル)と、赤い薬(レッド・ピル)のどちらかを選ぶことを迫られる。ブルー・ピルを飲めばネオは真実を忘れてこれまで通り仮想現実の中で生きることになり、レッド・ピルを飲めばネオの本当の身体は覚醒し、彼は機械文明と戦うレジスタンスに加わることになる。彼らは仮想空間に入りこんで、そこではスーパーヒーローのようなパワーを発揮して戦うことができる。レオはレッド・ピルを飲む。

『マトリックス』©1999 Warner Bros. Entertainment Inc.

 『マトリックス』は、2010年代アメリカで隆盛したいわゆる「インセル」運動、そしてその男性至上主義のイデオロギーにインスピレーションを与えた。「インセル」とはinvoluntary celibates(不本意な禁欲独身者)の略であり、典型的には若年層の白人男性・異性愛者であるが、恋愛やセックスに縁がなく、オンラインのフォーラムでコミュニティを作って自分たちの境遇に対する恨みを拗らせて女性嫌悪(ミソジニー)を募らせているような人びとの呼称である。

 「レッド・ピル」はインセルの符丁であるだけではなく、インセルの団体の一つの名前にまでなっている。そこでは、「レッド・ピル」が象徴する感性、つまり現実はフェイクであり、俺たちは隠された真実に目覚めなければならない、そしてそこには俺たちの苦しみの原因が隠されている、という陰謀論的な感性と、男性至上主義や女性・マイノリティ嫌悪と排除の感情の合流が見て取れる。それがトランプ主義的な右派ポピュリズムや白人至上主義にも流れ込んだことは想像に難くないだろう。

 だが、おそらく監督のウォチャウスキー姉妹(日本での普通の表記はウォシャウスキー姉妹だが、ここでは原語の発音に近づける)は、そのような受容を苦々しく思ったことだろう。

 ここでは『マトリックス』からそれを論じるのではなく(『マトリックス』について詳しくは参考文献に挙げた『現代思想』所収の拙論を参照)、「マトリックス」シリーズに続く姉妹の作品が、『Vフォー・ヴェンデッタ』(2006年)だったことを指摘しておこう。

 『Vフォー・ヴェンデッタ』はウォチャウスキー姉妹が脚本を書き、「マトリックス」シリーズの助監督だったジェームズ・マクティーグが監督した。舞台は全体主義国家と化したイングランド(『一九八四年』を彷彿とさせる)。政府への復讐を誓う仮面のダーク・ヒーロー「V」の物語である。

 詳細は省くが、ポイントは「V」がかぶり続けるガイ・フォークスの仮面である。ガイ・フォークスとは、1605年の火薬陰謀事件の首謀者であり、現在も11月5日は「ガイ・フォークス・デー」と呼ばれて祝われている(が、最近は下火で、イギリスでも日本と同様にこの時期はハロウィンの方が盛り上がる)。

『Vフォー・ヴェンデッタ』©2006 Warner Bros. Entertainment Inc.

 ガイ・フォークスはカトリック信徒であり、カトリックを抑圧するプロテスタント国家に対して、国会議事堂爆破を企てた。「V」はそのガイ・フォークスの仮面を、抑圧された民衆を束ねる象徴として使う。人びとがこの仮面をかぶって全体主義国家に対して蜂起する結末は感動的である。

 そして、このガイ・フォークスの仮面は、『Vフォー・ヴェンデッタ』を経由して、前述の「ウォール街を占拠せよ」運動で活用されることになる。

 ウォチャウスキー姉妹が「レッド・ピル」を飲んだ先に夢見たのは、インセルやトランプ主義者の「反乱」ではなく、『Vフォー・ヴェンデッタ』や「ウォール街を占拠せよ」に垣間見られたような民衆の連帯と反乱、そして秩序に変更を加える神的暴力とそれによる現状からの解放だっただろう。

『マトリックス レボリューションズ』の反革命

 しかし、そのような夢は、トランプ主義の現在の前には敗れてしまったように見える。それを考える時に、「マトリックス」シリーズの完結編『マトリックス レボリューションズ』(2003年)の、非常に中庸に見える結末が改めて重要だと思えてくる。

 副題の「レボリューションズ=革命」が含意しそうに思えるのは、人間たちの機械の支配に対する革命、というものである。ところが、作品の結末はこの副題を裏切っている。

『マトリックス』©1999 Warner Bros. Entertainment Inc.

 結末を要約するならこういうことになる。マトリックスの仮想現実の世界には、これまでにも定期的にバグが生じてシステムの危機を迎えていた。今回のバグは、ネオを付け狙うプログラムであるエージェント・スミスの暴走・増殖である。ネオは「救世主」と呼ばれるのだが、その救世主という存在は、人間を救うのではなく、不安定化したマトリックスのシステムをアップデートするための存在だったことが明らかになる。

 ネオはマシン・シティにおもむき、機械たちに取引をもちかける。スミスを倒してマトリックスを再生させるという、彼にしかできない仕事を実行する代わりに、現実世界の覚醒した人間たちには手を出すな、という取引だ。

 これは革命どころか反革命的で現状維持的な結末である。ネオが選択するのは、レッド・ピルを飲んだ人間たちがほどほどに生き残り、それ以外の人間は機械のエネルギー源としたまま、マトリックスを維持する権力(機械文明)は存続させるという、どこまでも中庸なものなのだから。

 先に述べたベンヤミンの言葉を使えば、この結末はシステムそのものを変更する「神的暴力」を避け、システムを維持するための「神話的暴力」を選んでいるように見える。

 私は映画公開当時、これはなんと反動的な結末なのだろうと憤慨した。しかし、トランプ主義をはじめとする右派ポピュリズムの嵐を目にした今は、この中庸な結末の先見性を感じないではいられない。この結末は、あらゆる人がレッド・ピルを飲んで「真実」に目覚めるべきだという要求はしない。すべての「現実」は作り物であって、それをはぎ取った真実に目覚めるか、逆に開き直って自分の好きな真実だけを選びとるかといった極端な二者択一に走ることが、慎重に回避されている。

 そこには、ポストトゥルース的な感性との付き合い方のようなものが、早々に示されていたように思えるのだ。

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現代社会と向き合うためのヒーロー論

MCU、DC映画、ウルトラマン、仮面ライダーetc. ヒーローは流行り続け、ポップカルチャーの中心を担っている。だがポストフェミニズムである現在、ヒーローたちは奇妙な屈折なしでは存在を許されなくなった。そんなヒーローたちの現代の在り方を検討し、「ヒーローとは何か」を解明する。

プロフィール

河野真太郎

(こうの しんたろう)
1974年、山口県生まれ。専修大学国際コミュニケーション学部教授。専門はイギリス文学・文化および新自由主義の文化・社会。著書に『新しい声を聞くぼくたち』(講談社, 2022年)、『戦う姫、働く少女』(堀之内出版, 2017年)、翻訳にウェンディ・ブラウン著『新自由主義の廃墟で:真実の終わりと民主主義の未来』(みすず書房, 2022年)などがある。

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トランプ時代の「お隣のヒーロー」|『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』『ジョーカー』「マトリックス」シリーズほか