山王鳥居
連載を始めるにあたって、まずは自宅から近いところに行きたいと思い、比叡山麓の「日吉(ひよし)大社」を選びました。日吉大社には、神道におけるきわめて重要な歴史があることは知っていました。ただ、恥ずかしい話ですが、京都の亀岡に何十年も住みながら、私はこれまで一度も日吉大社に行ったことがありませんでした。
三月上旬の寒い日。早朝に亀岡を出て、琵琶湖畔にたどり着くと、幾重にも雲が重なった空から小雨が降り出してきました。日吉大社の参道を歩いているのは、私たちだけです。
境内に足を踏み入れると、まず独特な形をした鳥居に目を奪われます。鳥居は上部にピラミッドのような三角形がのり、宇宙的な造形です。「山王(さんのう)鳥居」と呼ばれるこのユニークな形こそが天台密教の聖地、比叡山と、日吉大社の歴史を物語っているものです。
さて、「神道」と聞けば、現代日本人の多くが思い浮かべるのは、明治以降の統制された神道でしょう。しかし、千数百年もの間、神道は仏教と混淆し、それゆえに両者は複雑な関係を紡いできたのです。
比叡山は八世紀に最澄が開山しましたが、そのとき、比叡山にはすでに山を守る神々が存在していたといわれています。最澄はそれらをひとまとめに「山王」と呼び、寺の守護神として祀りました。それが、日吉大社の始まりです。
天台宗が全国に広まるとともに、日吉の信仰も日本中に普及しました。現在、日吉系の分霊社は「山王」「日吉」「日枝(ひえ)」などの名前で、全国に三八〇〇社以上もあるといいます。東京・赤坂山王にある「日枝神社」もその一つで、大きな山王鳥居が都心部にそびえ立つ光景を知る人も多いでしょう。
天台宗と日吉の神道は夫婦のような関係でありながら、残念なことに仲は円満とはいきませんでした。仏教の「本地垂迹(ほんじすいじゃく)説」によると、仏や菩薩は本来の存在=「本地」であり、日本に現れた神=「垂迹」は仮の姿だと解釈されています。これは、あくまでも仏教を優位にとらえた思想です。その思想の下で、比叡山は日吉の神社群を長い間、支配し続けました。
京都から見て、日吉を含めた比叡山は「鬼門」(北東)の方角に位置します。昔の人は、この地に荒々しい神霊がいると考えていました。比叡山の武装した僧兵は、その象徴でもあり、また山の強い気質のせいか、日吉大社でも度々、劇的な事件が起こりました。
江戸初期の一六八三年に、当時の神主たちが「本地垂迹」を徹底的に否定して、天台宗から自立しようとした事件は、その一つです。彼らは七つの社から仏像や仏具類を持ち出して燃やしてしまいます。仏像を宗教的な理由で燃やす行為は、日本の宗教史上でも珍しいものといえます。
比叡山が日吉側の非を強く幕府に訴えた結果、神主たちは罰せられ、仏像などは復旧されましたが、神主たちの仏教への怒りは、二〇〇年後に起こる明治政府の仏教弾圧「廃仏毀釈(きしゃく)」の伏線となりました。
廃仏毀釈運動では日吉大社に限らず、すべての神社から、仏教が強制的に切り離されました。日吉での廃仏毀釈は特に過激で、このときに再び仏像類は社から引きずり出され、破壊される憂き目にあいました。その数は一〇〇〇点以上にのぼったと記録されています。明治以降は山王鳥居のてっぺんにある三角形も問題視され、しばらく取り外された後、一九一五年にようやく元の形に戻されています。
雨のなか、周囲にまったく人がいない境内で見る日吉大社の鳥居は、静かで平和です。神仏習合の精神を宿した鳥居は、神秘的で威厳に満ちています。しかし、その背後には、複雑な宗教対立の歴史が秘められているのです。
著名な観光地から一歩脇に入った、知る人ぞ知る隠れた場所には、秘められた魅力が残されている。東洋文化研究者アレックス・カーが、知られざるスポットを案内する「巡礼」の旅が始まる。