僕の住むブルックリンの話
若い人がなかなかジャズべニューへ足を運ばないその理由の一つは、マイルスの言った「俺の音楽をジャズと呼ぶな!」に顕著に表れています。ジャズの敷居が高くて入れない。
僕が住むブルックリンの教会では、日曜日のミサの途中に通ると中から音楽が聞こえてきます。顔を突っ込むと「入っておいで」と誘ってくれます。そこにはオルガン奏者と歌手、司祭たちが儀式、精神的修行や伝達などを行っています。
集団での音楽演奏は人の暮らしに必要不可欠なものなのです。ゴスペルやR&B、そしてジャズ。混じり合った音楽がそこにあります。大きな耳をそば立てると今演奏してる人は結構すごいやつかもしれない。そんな音楽体験が生活に根ざしたところにあって、元々「人が人とを繋がるため」の音楽が息づいている、そこにジャズの始まりもあるような気がしてなりません。
ニューヨークには世界中から異なる文化的背景や系譜をもった人たちが移り住んできているから、ともすれば隣で信号待ちしてる2人がドナルド・トランプとホームレスだったりするわけです。めちゃくちゃ近いシンパシーで仲良くなれるかもしれない人たちが、お互いすれ違ったままになる可能性も大きい街です。
だからこそ、気さくなミュージシャンと気楽に会って話ができる、ジャズに大きな壁を作らない環境が魅力だと思います。世の中が外に出なくなっても成立してきた今だからこそ、ジャズが人と人を繋いでいたあの時間をもっと復活させたい、そう思います。あまりに商業的になりすぎて本来の音楽のノリしろが減ってきているのです。そこへ若いミュージシャンがジャンルに構わず、「ソーシャルミュージック」と名打った活動や言動をしているのを見ると非常に興味深いと思うわけです。
僕の部屋の下の信号待ちの車からは、レゲエ、チャチャ、タンゴ、ラップ、サルサ、メレンゲ、バチャータ、クンビア、カリプソなどさまざまな音楽が爆音で流されてます。結ばれない点と点のように散在してた音楽。それが一瞬の信号待ちで上の部屋の僕の心と体を揺らしていく。それはその部屋で自身のオリジナルを作る僕の音楽を通じて、「ソーシャル」に別の国の(場所の)誰かへと伝わっていき、やがて「一つ」のメッセージになり得るかもしれません。そんなイメージを僕は「ソーシャルミュージック」に持っています。
ストリートを舞台に点の音楽が線の音楽になる、そんな可能性を響かせている街がニューヨークだと思うのです。
ジャズはJAZZと表記しますが昔は実はJASS(ジャス)でした。JASSというのは情熱と訳されているけれどもかなり猥褻な意味もありました。だからジャズと言葉には元々差別用語に等しいような意味合いが含まれていたという驚くような事実があるのです。
なのでアフリカ系アメリカ人のジャズミュージシャンの中には、ジャズという言葉や表現を拒絶していた人が多くいたのもそういった理由に端を発してると言えるでしょう。
以前大学でジャズの定義を「アフリカにルーツがある音楽」だと考え、ニューヨークのジャズスクールで教鞭をとる先生に聞いてみたところ、「今はジャズのルーツを語るには人種問題が複雑すぎる」とアドバイスされたことがありました。
先人たちに演奏され進化し続けてきたジャズという音楽への尊敬、スイングするリズムやコードにおけるテンションの使用など、シオをはじめとする若いジャズミュージシャンはよりそのルーツをはっきり示すような演奏をしながら、なおもジャズから派生するあらゆる音楽としての立ち位置を強調する傾向があるように思います。
音楽を取り巻くすべての状況を「ソーシャルミュージック」と呼ぶならば、無限大に音楽への敬意を払いながら、そこから解き放たれることこそが必要だと思います。元々ジャズが持っていた「人間主義」や「行動主義」を「演奏」と改めて結びつけていくことです。
プロフィール
(おおえ せんり)
1960年生まれ。ミュージシャン。1983年にシンガーソングライターとしてデビュー。「十人十色」「格好悪いふられ方」「Rain」などヒット曲が数々。2008年ジャズピアニストを目指し渡米、2012年にアルバム『Boys Mature Slow』でジャズピアニストとしてデビュー。現在、NYブルックリン在住。2016年からブルックリンでの生活を note 「ブルックリンでジャズを耕す」にて発信している。著書に『9番目の音を探して 47歳からのニューヨークジャズ留学』『ブルックリンでソロめし! 美味しい! カンタン! 驚きの大江屋レシピから46皿のラブ&ピース』(ともにKADOKAWA)ほか多数。