メキシコの路上で焼鳥を売る
大阪市内に住んでいる今村さんは1985年、静岡県に生まれ、幼少期を大阪、横浜、名古屋で過ごした後、大阪の大学に進学。大学院を修了した後、東京の設計事務所へ就職するも、一年後に退職することになったのだという。
――退職することになったというのは……。
クビになってしまったんです。設計のスキル、センスがなかったんです。大学院も合わせて6年も勉強してたんですけど、全然ダメでしたね(笑)。それが2012年ですね。
――そこからの経緯を伺ってもいいでしょうか。
クビになった後、半年ぐらいは京都で建物の内装工事をしていたんです。大学の時にお世話になった建築家の人が声をかけてくれて。その後、今度はクビになった会社でお世話になった人が「吉祥寺に面白い会社があるよ」って声をかけてくれて、そこに入っちゃったという。
――フットワーク軽く仕事を変えていったわけですね。
そうですね。それが本当に面白い会社で、海外のビデオ機器とかを輸入して販売する会社なんですけど、社長が飲食にも興味があって、空きスペースを見つけていきなり焼鳥を始めたんです。その店が今は十数店舗もあるぐらい増えてるんですけど、最初はもうゲリラ的というか、工事中でもお店を始めちゃうみたいな。
――柔軟な姿勢の会社だったんですね。今村さんはそこに入って何をしていたんですか?
お店の立ち上げの手伝いや、お店ができた後にはそこのマネージャーとして仕事をしていたのですが、ある時、僕も焼鳥を焼くことになったんです。社長から30分ぐらいレクチャーを受けて、「これでいける」って(笑)。知り合いに出したら「これ、生だよ」とか言われたこともありましたけど(笑)
――いきなり焼鳥を焼くことになったんですね。
その時は新しいお店の立ち上げ準備をしていたのですが、設計はまだまとまっていないけれど、お店は賃料が発生してしまっていて、それがもったいないということで、お店の改装前の現場に屋台を持ち込んで焼鳥とビールを売ることになったんです。その経験がすごく面白くて。
――その焼鳥が屋台につながっていったんでしょうか。
その後、2015年に結婚して、新婚旅行で世界一周旅行に行くことにしたんです。1年かけて26か国まわって、もちろん色々面白いんですけど、僕が飽きてきてしまって(笑)。その時、メキシコにいたんですけど、泊っていた宿のオーナーが面白くて、高校卒業してからずっと世界を旅しながら生きているたけしさんっていう日本の方だったんですけど、「海外は屋台がたくさんあっていいですよね」って僕が言ったら、「メキシコだったら日本みたいに厳しくないから、やってみれば?」って。
――それで屋台をやってみたわけですか。
路上で焼鳥を焼いて売ったんです。路上に正座してやってたんですけど、僕はあれもれっきとした屋台だと思っていて(笑)、自分のできる範囲でやれるのが屋台だと思っているんです。逆にあれこそが屋台じゃないかって。
――なるほど、店っぽい構えがあるかどうかより、姿勢の問題というか。
そうですね。一日に1万円ぐらい売り上げて、宿代が700円とかだったんで、これを週に一回か二回やれば生きていけるなっていう。その経験はすごく大きかったんです。めちゃくちゃ面白くて。
――旅を終えて日本に帰ってきてからはどうしていたんでしょう。
それもクビになった会社の人が声をかけてくれたんですけど「大阪の大正区で空き家活用事業の拠点となるシェアスペースを運営することになったから手伝って」って言われて、じゃあ行こうと。
――そこで大正区に来られたんですね。空き家再生事業というのは大正区ならではのプロジェクトなんですか?
大正区以外も大阪市のあちこちでやっていたりするんですけど、大正区に空き家が多いからというのはありますね。
――具体的にはどんなお仕事だったんですか?
空き家をリサーチしたり、実測したり、そういう作業をしていました。僕はスタッフ要員で、動いた分は時給でもらっていました。それだけじゃ生きていけないからっていう消極的な理由でフリーランスになったんです。独立したものの、何かしたいんだけど何をしていいかわからない感じでしたね。ただ、その空き家再生事業のシェアスペースをオープンした時に、改修の際に出てきた廃材で小さい屋台を作ってみたんです。座って使えるような小さいサイズで、そこでみんなに焼鳥を振舞ってコミュニケーションをとったりして、その屋台がこれですね。
――メキシコの時はもっと路上っぽかったですけど、これはもう屋台という感じですね。これは、手ごたえを感じましたか?
手ごたえ……あったのかな(笑)。でも木の枠があるだけで屋台っぽく見えますよね。これがきっかけで、イベントにこの屋台を出したりしました。この屋台をやっていると、子どもたちが「焼鳥焼きたい!」って寄って来るんですよ(笑)。それが面白くて「じゃあ売ったらまかないで焼鳥あげるわ」って屋台を任せたりとか。次の年はもう最初から子どもたちを店長にして、売り上げを渡したり。
――そこですでに面白い場が生まれていますね。小さなサイズだからこそよかったのかもしれないですね。
そうですね。メキシコで屋台を自分でやって、それがすごく面白い体験だったから、みんなにもそういう体験をしてもらいたい気持ちもあって、そこからもっと大きい屋台を作ったんですよ。まさにこの、本の表紙の。
――おお、これはもう完全に屋台っぽい見た目ですね。さっきセンスがないとおっしゃってましたけど、こういうものが作れるってすごいですね。
うーん。建築の設計って図面を描いて、誰かに作ってもらうじゃないですか。でも屋台は自分で考えて自分で作れるから、それがいいんですよ。作りながら、ちょっと失敗しても直せばいいし。
――自分でどんどん手を加えていけると。これはいつ頃のものですか?
2017年か、2018年に作ったものですね。これはイベントで使おうと思って作ったんです。建築関係の展示会に出店するのに、電車に乗せて持っていったりして。スライドさせると小さくなるんですよ
――これを電車で運べるんですね。
車内持ち込みできるサイズで作ったんです。ただ、最初に作ったミニ屋台もそうですけど、この形だと露店営業の許可が出ないんです。それでもっと改良して、露店営業許可をとって、正規に出店をしたりし始めましたね。
――露店営業の許可を取るのは大変なんですか?
いや、この屋台の中に必要な設備を詰め込めば取れるんです。なのでちょっと大きい屋台になってしまいますが。それからイベントに屋台を出してっていうのをやっているうちに「こっちでもなんかやってよ」みたいに声が掛かったりして、内装をやったり、家具を作ったり、まちづくり事業にも関わらせてもらったりする中で、自分のこれまでの仕事を振り返ったら、「あ、屋台っていう実験や仮設をキーワードにしてまとめられるわ」って思って、そこからさらに突き進んでいく方向になっていって。
――最初はなんとなくやっていたのが、だんだんと意味が大きくなっていったという。
そうそう。そういう感じでした。
――目立ちますし、あちこちから声がかかりそうですよね。
行政の人に声をかけてもらったり、「屋台をやってみたい人がいるからワークショップやって欲しい」って言われたり。
――ワークショップというのは?
みんなで屋台を作って、自分たちで使ってもらうっていうのが基本ですね。
――そういう流れで今村さんの中で屋台が活動の中心になってきて、それがどういう風に「橋ノ上ノ屋台」につながっていったんですか?
2020年に共通の知り合いを介して笹尾さんと会って、僕も笹尾さんの本を読んでいたし、笹尾さんも僕を知ってくれていたんです。その時は普通に飲んでしゃべってみんなで銭湯に行っただけなんですけど。僕の中で、日本の街なかでも屋台をやりたいけど、一人じゃなかなかできないなっていうモヤモヤした思いがあって、その頃にちょうどコロナ禍になったんです。
――そういうタイミングだったんですね。
コロナ禍なのでお店もどこもやってなくて、大正に僕の事務所があって、笹尾さんは浪速区に住んでいるから、時々、大浪橋の上で二人で飲んでたんです(笑)。ちょうどいい中間地点っていう感じで。
――お二人の運命の橋だったんですね(笑)
そうなんですよ。そうやって飲んでいる時に「一緒に屋台やらない?」って誘って。そしたら笹尾さんが「いいね。ヒリヒリすることがしたい」って(笑)。それでやることになったんです。2021年の年末にその話があって、始めたのは2022年の4月でしたね。
――なるほど。あの屋台は「橋ノ上ノ屋台」用に作ったものですか?
そうです。あれ用に作りました。
――最初から毎月やろうと考えていたんですか?
月一ぐらいでやろうとは思っていたかもしれないです。でも、最初はそこまで考えてなかったかな。ただ、日本の屋台ってイベントとかお祭りに出ることが多いじゃないですか。でも海外の屋台って日常的にやっているものが多くて、そういう風に、日常化したかったっていうのはありますね。一回やって人が集まって終わりというのだと面白くないなって。
――月に一回「なんか見かけるなー」と認知されていくようなイメージですね。
そうそう。「ああ、あそこ、たまに屋台やってるよね」みたいな。
――継続的な場にしたいということですね。あれは、ちなみに違法じゃないんですよね?
違法ではないです。露店営業許可もありますし。
――違法ではないけども、たとえば通る人が邪魔だと感じたら警察に通報することはあるわけですね。そういう場合は速やかに撤収するんですよね?
そうです。でも最初の方は笹尾さんが結構戦ってましたね。道路交通法を印刷して持っていったものを見せて「この範囲内でやってるんですけど」って。それで「わかりました」って帰っていった時もあるし、その警官が本部に連絡してパトカーが来たこともあって。
――大ごとになっていったというか。
後日、警察署に二人で資料を持って行ってルールの解釈の話をして、そこについてはとりあえず「そうですよ」って言ってもらったんです。笹尾さんが言ってたのは「太鼓判を押してもらう必要はないよね。屋台を営業することができればいいんだから」って。なるほどなーと思いました
――ああ、違法じゃないっていうことは明らかなんだから、あとは柔軟にやっていくしかないという。
そうそう。僕らも違法なことをしたいわけじゃないし、違法じゃないことをたてにしてケンカをしたいわけでもないから、そこからは警察が来たら移動するっていうスタイルに変えましたね
――毎回警察が来るわけじゃないですよね?
4割ぐらいですかね(笑)
――思ったより多い! 警察はもう顔なじみだったりするんですか?
知ってる人もいますね。「また来ました」みたいな。
――それはやはり近隣の方の通報なんでしょうか?
誰から通報があったっていうのは教えてくれないので、通行の邪魔になったのか。そこはわからないんです。
――そういう方向のリアクションもあれば、ふらっと通りかかった人がお客さんとして来ることもあるんですよね?
ありますよ。基本、お客さんは楽しんでくれます。そもそも、あそこで立ち止まる人は寛容なスタンスというか。
――お二人とも、人や自転車が通るたびに必ず声をかけていますよね。
そうですね。身内で騒ぎたいとか、そういうことではないんで。
――私自身、ああいう場があることに面白さを感じるし、自由な感じがして好きなんですが、一方でネガティブな声も想定しうるというか、「邪魔だ」とか「お店でやればいいじゃないか」とか「わざわざあそこでやる意味は?」とか、そういう風に思う人もいるかもしれないですよね。そこに対してはどうでしょうか?
そもそも直接僕らにクレームを言う人がいないんですよ。僕らではなく警察に通報する。むしろ直接言われたらそこからコミュニケーションできるからありがたいんですけどね。それを通り越して警察に言って移動させるっていうスタンスばかりなので。
――なるほど、実際の声としての意見は聞こえてこない。でもなんとなく、最近のSNSを見ていたりすると、そういう意見が出てきそうだなと思えて……。今村さんの中で、そういう日本のムードへの反発心みたいなものはありますか?
そういう息苦しさを寛容さに変えていきたいという気持ちもあるんで、実践して見てもらうっていうのはあるけど……。でも、楽しいからやってるんじゃないかな。これが当たり前になって、屋台がなくても好きに橋の上でお酒を飲んでる人が生まれてくれると面白いですよね。
――だからこそああして同じ場所で定期的にやって存在感を出してるわけですもんね。
まあでも、そういうアピールをしたいというよりは、楽しいからやってるんですけどね。
2014年から大阪に移住したライターが、「コロナ後」の大阪の町を歩き、考える。「密」だからこそ魅力的だった大阪の町は、変わってしまうのか。それとも、変わらないのか──。
プロフィール
1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。WEBサイト『デイリーポータルZ』『QJWeb』『よみタイ』などを中心に執筆中。テクノバンド「チミドロ」のメンバーで、大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』(スタンド・ブックス)、『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)、パリッコとの共著に『のみタイム』(スタンド・ブックス)、『酒の穴』(シカク出版)、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』(ele-king books)、『“よむ”お酒』(イースト・プレス)がある。