■避難の道中
バスに乗る手続きをした後、午後4時にバス3台が出発した。ベジメンヌ村(マリウポリ東方の村落)では厳しい検査をされた。いわゆる「選別キャンプ」と呼ばれるもので、ネオナチやウクライナ軍との関係がないかをロシア軍に取り調べられるのだ。真夜中にベジメンヌを出て、大きく迂回をしながら、その後、バシリウカ(ザポリージャ南方の街)に翌日の午後1時に到着した。
ビオレッタさんは当時の状況をこう説明する。
「そこでずっと待っていました。どうやってウクライナ側が私たちを受け入れるのかわからないままでした。発砲や戦闘の音が周りから聞こえていました。とても怖かったです」
母イリーナさんはこんなことを記憶している。
「ロシア兵はクッキーを子どもたちにあげていました。それからうまく歩けないおばあさんの荷物を運ぶのを手伝ったりしていました」
あとでビオレッタさんにもそのことを確認すると、同意しつつも彼女はもう一つ覚えていることがあると付け足した。
「ロシア兵たちはずっと自分たちの携帯でその様子を撮影していました。あと、バスの運転手が、『あなたたちは首相やVIPみたいに輸送されているね』と言っていました」
ビオレッタさんの言葉を聞いて、アンドリが私に「僕の考えだけど、これはロシア側のプロパガンダだよ」と言った。
つまり、住民にクッキーをあげ、お年寄りを手伝う優しいロシア兵のイメージを作ろうと撮影していたというのだ。普段の輸送の様子と違うからこそ運転手はこんな印象を持ったのだろう。
彼女たちの証言は、人道回廊がロシアのイメージ戦略に利用されていることを示している。
しかし皮肉なのは、このプロパガンダのおかげで彼女らは助かった側面もあるということだ。撮影を行う前提でこの「人道回廊」バスは用意された。それゆえ本来なら攻撃を受けたり、ロシア側へ連れていかれたりする可能性もあったのに、彼女たちは無事に避難することができたのかもしれないのだ。
2時間待った後、ロシア側はウクライナ側と連絡がとれ、その後イリーナさんたちのバスの前後に装甲車両ともう1台ロシア軍人を乗せた車を同行させ、ウクライナ側のバス2台が来ているところまで移動した。そこには赤十字も待機しており、彼女たちはバスを乗り換え、ロシア軍占領地を抜けザポリージャに到着することができた。
一家がザポリージャの一時滞在所に着いて最初にしたことは、家族や親類たちに連絡を取ることだった。イリーナさんの親類や友人の間では、彼女が死んで遺体もすでに見つかったという話が広まっていたそうだ。
「私を追悼するビデオを作った人もいたんですよ」
日本ではあまりないかもしれないが、国や地域によっては誰かが亡くなると、知人や家族が故人の生前の様子を撮った動画とともに追悼のメッセージをSNSに投稿することがある。
イリーナさんは友人が作った動画を見せてくれた。
ろうそくの炎が画面の端にあって、イリーナさんがワインを飲んだり、綺麗なドレスを着て女友達と食事をしたり、旅行にでかけたりする様子が次々と現れた。目の前の彼女は疲れ切った表情で座っていたので、彼女が以前はこんな生活をしていたことがすぐには信じられなかった。
ロシアによる侵攻で「戦地」と化したウクライナでは何が起こっているのか。 人々はどう暮らし、何を感じ、そしていかなることを訴えているのか。 気鋭のジャーナリストによる現地ルポ。
プロフィール
1985年三重県出身。2011年東京大学大学院修士課程修了。テレビ番組制作会社に入社し、テレビ・ドキュメンタリーの制作を行う。2013年にドキュメンタリー映画『ファルージャ ~イラク戦争 日本人人質事件…そして~』を監督。同作により第一回山本美香記念国際ジャーナリスト賞、第十四回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞を受賞。その他、ベトナム戦争や人道支援における物流などについてのドキュメンタリーをNHKや民放などでも制作。2018年には『命の巨大倉庫』でATP奨励賞受賞。現在、フリーランス。イラク・クルド人自治区クルディスタン・ハウレル大学大学院修士課程への留学経験がある。