対談

「日本の劣化」を食い止めるカギは「森のようちえん」にある!?【後編】

宮台真司×おおたとしまさ

「森のようちえん」がもつ真の社会的意義

おおた 人類が言葉に抑圧される前の状態を、幼児期に追体験するということですね。

宮台 援交フィールドワークの延長上に見出した若者の著しい性愛的な身体性の劣化がきっかけで、僕はこれらを認識するようになりました。特に劣化が激しい若者がどう育ったのかを調べるうちに具体的メカニズムもわかってきました。

だから、僕は性愛の議論をたくさんするし、その成果としてできた本は皆に読んでほしいけど、単なる性愛の本としては読んでほしくないんです。性愛に表れている僕らの劣化が何を意味するのかを理解するためにこそ読んでほしいです。

劣化の具体的メカニズムが示すのは、「劣化からの回復には、森のようちえん的な環境や大人の関わりが必要だ」ということです。子どもがコントロールされずに人間や物とフュージョンする時空です。

森にいると中動態的に内から湧き上がる「力」によって動き回れること。森に動かされて森に向けて動くこと。この「力」をエネルギーや気とも言えるしバーチューとも言えます。「学習的適応」の優位に抗う「価値的貫徹」の志向の源です。

おおた そういうことなんです。森のようちえんも、ただ自然科学に詳しくなるねとか、エコな気持ちが育つねとか、そういうことではありません。

宮台 おおたさんが里山の意味について触れてくれたので、補足します。ユダヤ・キリスト教圏の文化は、神の罰に脅える強迫性障害を被っているので、万物(ピュシス)学とメタ万物(形而上)学を明確に線引きするクセがあります。

たとえばキリスト教神学には自然神学を神経質に排除してきた歴史があります。ひとを見るのは神だけ。神を見るのはひとだけ。人類史上、これは非常に特殊であると同時に、ニーチェがそれを「症状」だと見たように、やや滑稽な文化です。

話してきた通り、人類はもともと言葉の外でつながるために言葉を使いました。森とひとが相互浸透する里山は、言葉の外でつながるための言葉を使う場所です。そうしないと生きられないからです。それが里山とは何かを示します。

森と都市を明確に区別するヨーロッパだと、都市は「言葉と法と損得」で動くロゴスだけの場所で、バカンスでピュシスの森でレクリエーョンする発想になります。これだと「週末のサウナ」よろしく、森が都市での閉ざされを支援します。

むろんこれは理念型で、ヨーロッパにも里山と機能的に等価な場所があり、いまを比べればむしろ日本で里山的機能が失われています。森と結びつく生業を皆が営むことで、言外でつながる言葉を日常に使うのが「里山的」だと確認します。

おおた さきほどヨーロッパは一神教でという話をされていましたが、逆に言えばそれ以外の多くの地域ではアニミズム的な宗教観を前提にしているととらえていいんですかね。

宮台 そう。たとえばゲルマンや北欧には「森の思考」つまり森と結びついた自然哲学があります。エコロジーのルーツであるナチスの生態学的平等主義──人殺しはダメというお前は朝ベーコンを食べただろ──もそのつまみ食いです。

その話は面倒だからしなかったけど、流れからなるピュシス(万物)と、ロゴスからなるノモス(法共同体)をわける二元論──土が血を育てる──がつまみ食いの背景です。里山にはこの二元論はなく、土は血であり、血は土なんです。

ナチスの自然哲学はアニミズムの「万物が見る」を抜き去ります。万物に見られる構えがひとをカテゴリーから解放するのに、これを抜き去るからカテゴリーに出鱈目なステレオタイプを結びつけるおぞましいユダヤ差別に帰結しました。

「ひとだけが見る」のなら、ひとはカテゴリーとステレオタイプに閉ざされます。「動物も見る」のであれば、「ジャガーにとっての人の血は人にとってのマニオク酒」という言葉のラベルの転倒が可能になる。それが力を与えるんですね。

おおた うん、うん、そうですよね。

宮台 いろんな事物に見られるので、いろんな事物の視座をとれること。それで力が湧きます。ジャガーになりきり、鷹になりきり、樹木になりきりながら、それでもひとに戻れることで、ひととしての力が湧くんです。

性愛もそう。異性愛でいえば、男が女になりきりながら男に戻れることで、力が湧き、女が男になりきりながら女に戻れることで、力が湧く。祭りもタブーとノンタブーを反転する「元に戻れるなりきり」によって力を回復する営みでした。

言葉と法と損得に閉ざされた新住民の「安全・便利・快適」至上主義で、真の祭りは失われたけど、それでも最近まで「元に戻れるなりきり」で力を回復する「言外・法外・損得外」に展開する性愛の時空がありました。

いまも性愛は辛うじて残った「言外・法外・損得外」の時空です。「言葉・法・損得」の時空である社会と、「言外・法外・損得外」の時空である性愛が、直和分割されるものだという感覚がまだ一部に残っているんです。

とはいえ、性愛の時空に、「俺は社長だ」「いよいよ部長だぞ」みたいな地位自慢で、社会の時空を持ち込む男がどんどん増え、カテゴリー主義=属性主義のマッチングアプリがそれを加速しているところですね。

おおた いや、普通にいそうですけどね(笑)。

宮台 「僕は東大で、こんなにロジカルで頭がいいから、君は僕をリスペクトして、性愛的に僕を許容しろよ」とのたまう男がうようよ増殖中だけど、すぐに死んで生まれ直したほうがいい。僕は「即死系」と呼んで、徹底的に差別します。

「言外・法外・損得外」に開かれた最後の時空という点で、性愛の時空とともに辛うじて残っているのが、森の時空です。だから、性愛の時空の擁護と、森の時空の擁護が、僕の実践の両輪になります。だから、おおたさんとコラボします。

おおた 私は森のようちえんを取材して、その意味を考え、本にまとめたことで、宮台さんが性愛の時空を擁護する意味が、実感として理解できるようになりました。森も性愛もピュシスですからね。

だから今回のこのイベントにおける私の役割は、「宮台さんがいつも一生懸命世の中に伝えようとしていることは、性愛そのものの価値ではなくて、性愛の先にある、性愛を超えたもっと大きなものの価値なんだ」と伝えることだと思って今日の準備をしました。

その「もっと大きなもの」をラカン的には「享楽」と呼ぶのかもしれません。ピュシスの手触りを知らないと享楽には触れられない。

相対的な快楽は世の中の諸条件によって変わってしまうけれど、絶対的な享楽を感受できる人間は、世の中がどうであろうと幸せになれる。その幸せの実感をもとにして、他人をも幸せな流れに巻き込むことができる。

森のようちえん的なアプローチから、現代の人間が失いつつある享楽に対する感受性を回復する道が開けるのではないかと私は考えました。宮台さんはずっと前から、性愛の時空から同様のアプローチを試みてきたということですよね。

そのことが今日、みなさんにもはっきりとおわかりいただけたのではないかと思います。

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プロフィール

宮台真司

1959年宮城県生まれ。社会学者。映画批評家。首都大学東京教授。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。社会学博士。1995年からTBSラジオ『荒川強啓 デイ・キャッチ!』の金曜コメンテーターを務める。社会学的知見をもとにニュースや事件を読み解き、解説する内容が好評を博している。著書は『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』『日本の難点』(いずれも幻冬舎)、『14歳からの社会学』(ちくま文庫)、『社会という荒野を生きる。』(ベスト新書)、『子育て指南書 ウンコのおじさん』(共著、ジャパンマシニスト社)、『音楽が聴けなくなる日』(共著、集英社新書)など多数。

おおたとしまさ

1973年東京都生まれ。教育ジャーナリスト。1997年、株式会社リクルート入社。雑誌編集に携わり2005年に独立。数々の育児誌・教育誌の編集に携わる。新聞・雑誌・Webへのコメント掲載、メディア出演、講演多数。著書は『ルポ塾歴社会』(幻冬舎新書)、『受験と進学の新常識』(新潮新書)、『麻布という不治の病』(小学館新書)、『いま、ここで輝く。: ~超進学校を飛び出したカリスマ教師「イモニイ」と奇跡の教室』(エッセンシャル出版)、『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』『ルポ森のようちえん』(いずれも集英社新書)、『ルポ名門校 ――「進学校」との違いは何か?』(ちくま新書)など70冊以上。

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