移民や難民の存在が、世界のあちこちに様々な波紋を広げている。共感的な者にも否定的な者にも共通するのは、彼らを現象として捉える姿勢ではないだろうか。だが彼らは身近にもありふれた、より良い暮らしを求めるひとりひとりの人間なのだ。
移住、旅、避難、亡命…。様々なレベルの移動が、日々を少しでも充実させるため、個人によって繰り返されている。息苦しさから逃れた先のスペインで、再び旅に出た若き文筆家が感じた、人が移動することの意味とは。
2018年の6月のこと、数日間のポルトガル旅行を終え、留学先のスペインの街サラマンカへ戻ってきたとき、あれっ、と思った。サラマンカへ着くと、路上では子どもたちが楽しそうに遊んでいたり、友人と出くわしておしゃべりする老人たちがいたりと、「ああ、ここはスペインだ」と思ったと同時に、ポルトガルという外国から帰ってきたのに、戻った先もまたスペインという外国であることに気づいたのだ。いつもなら旅行帰りは、勝手知ったる地元の東京・吉祥寺の駅前の風景にホッとするのに。
行き場をなくして、自分がふわふわ揺れ動く。そういう不安定な感覚は、スペインで暮らしているこの10か月ずっと自分の中にあった。最近は、サラマンカでの暮らしに慣れてきて、適応できる自分と、そうでない自分との両方が実感され、スペインと日本との間で自分が振り子のようにブレながら、生活している感じがする。
そういう中で、旅行や移住、亡命といった、人が移動することそのものについて以前よりも気になり、また自分がそれまで「旅」とか「移動」とかいうことについて捉えてきたイメージがどこかずれていたのではないか、と思えることもあった。
今回は6月にポルトガルへ行ったことを入口に、ひとの移動ということについて考えてみたい。
30歳を目前にして日本の息苦しい雰囲気に堪え兼ね、やむなくスペインへ緊急脱出した飯田朔による、母国から遠く離れた自身の日々を描く不定期連載。問題山積みの両国にあって、スペインに感じる「幾分マシな可能性」とは?