衰退寸前に陥りながら、藍染の愛好家が増えた理由
近代化によって伝統的な手法が衰退するというのはよくある話だろう。ところが藍の取材を始めてほどなく気付いたのは、藍染を行う人の中にはプロの職人だけでなく、個人作家や愛好家と呼ばれるセミプロ、趣味の延長で藍染を楽しむ人が多い、ということだった。
誰もが一度は、地方の土産物屋などで、個人作家や工房で染めた藍染の衣服やストールを目にしたことがあるのではないだろうか。各地で行われる「クラフトマーケット」や手作り市などでは、必ずといっていいほど藍染作家が出店しているのを見かけるし、藍染作品の展示会も各地で行われている。「藍染 工房」などのワードで検索すると、全国に小規模の染工房が数多く表示され、藍染体験できる場所も多い。
そうした人たちの間では、今も伝統的な藍建て、つまり藍の葉を発酵させたスクモを使う染めの方法が行われている。なかでも灰汁をつかった「天然灰汁建て」を製法として記しているところが多い。アパレル品の大半が化学染めに置き換わっても、日本人が文化として天然藍を大事にする気持ちは残っていることがわかる。
戦後の天然藍染の世界は、ただ衰退の一途を辿ったわけでなく、ある動きによって、80〜90年代にわずかに生産量が伸びるという不思議な動きをみせた。60年代後半から70年代にかけて、徳島では「このまま藍を廃れさせない」「阿波藍を再興しよう」とする気運が高まったのである。
まず、阿波藍の技術保存や振興を目的とした組織が立て続けに立ち上がる(*2)。なかでも興味深いのが、徳島県立工業試験場(現・工業技術センター)を中心に始まった「藍染研究会」の動きである(*3)。藍師や染色のプロも参加する会で、藍建ての技術を一般公開したのだ。
それまで藍建ての技術は、専門家の間に閉じられたものだった。藍建てして(つまり発酵させて)、いい色に染まるように染色液を管理するには、それなりの経験と技術を要する。素人がおいそれと手を出すのはハードルが高い。
研究会では、初心者でも個人が少量のみ染められるレシピを公開。雑誌や講習会を通して技術を伝えたところ、藍染の愛好家や個人作家などから反響があり、10回以上開催された講習会には延べ300名以上が参加したという。今でいうオープンソースの考え方に近い。
この藍染研究会の動きがのちに藍染の指導者になる人材を養成することにつながり、アマチュアやセミプロである個人の染色作家や工房が全国に増えて、スクモの需要につながった。その流れは、今につながっている。
戦後、1966年にたった4ヘクタールだった藍の栽培面積は、2000年には約6倍の25.4ヘクタールに増えた。一般的な作物に比べればまだ少ない面積だが、藍師・新居修さんのスクモを納める得意先の数は1985年に比べて2000年には5倍になった。別の藍師の家でも、藍染作家・工房の数は3倍に。新居さんは1980年より藍師の仕事を再び専業で行うようになり、2022年時点で年にスクモ200俵をつくっている(*4)。
(*2) 1967年の徳島県阿波藍生産保存協会、1977年の徳島県藍染研究会、1978年には阿波藍製造技術保存会。同年、「阿波藍製造」は、文化庁による選定保存技術にも認定された。1979年には四国女子大学(現・四国大学)に「藍の家」が設立され、地域の伝統文化の継承を目的に、教育課程にも取り入れられた。
(*3) 現在、「藍染研究会」は四国大学に事務局を置いている。
(*4) 今、全国に何人の藍染作家と名乗る人や個人工房が存在するのか、産業組合などの組織があるわけではないので、明確な数字はわからない。だが藍師への調査によると、70年代から2000年にかけて、得意先の層が変化している。ある藍師の家では、1970年はスクモを納める先のほとんどが紺屋と呼ばれる染工場だったが、1985年には藍染作家・工房の数が紺屋の数を抜き、2000年には紺屋の倍になっている。『阿波藍』(川人美洋子)P.39
プロフィール
フリーライター。長崎県生まれ。会社員を経て、2010年に独立。日本各地を取材し、食やものづくり、地域コミュニティ、農業などの分野で昔の日本の暮らしや大量生産大量消費から離れた価値観で生きる人びとの活動、ライフスタイル、人物ルポを雑誌やウェブに寄稿している。Yahoo!ニュース個人「小さな単位から始める、新しいローカル」。ダイヤモンド・オンライン「地方で生きる、ニューノーマルな暮らし方」。主な著書に『ほどよい量をつくる』(インプレス・2019年)『暮らしをつくる~ものづくり作家に学ぶ、これからの生き方』(技術評論社・2017年)