韓国カルチャー 隣人の素顔と現在 第6回

『子猫をお願い』が描いた、周辺の物語

猫と女性、仁川と在韓華僑
伊東順子

 2.仁川と在韓華僑 

 ヘジュが抜け出したかった、周辺部としての「仁川」

 タイトルにも記したように『子猫をお願い』は、韓国社会の「周辺部」を描いた作品である。それを象徴するのが、当時は不人気で不吉とまで言われた「猫」であり、それは韓国社会における若い女性のイメージと重なる。なかでも大卒の血統書も持たない野良猫風情は、社会のいたるところで舐められていた。

 そして仁川という街。ソウルという中心から外れた周辺部なのだが、遠く離れた地方都市とは違い、通勤圏内のギリギリにある場所。映画ではソウルに強い憧れをもつヘジュを通して、仁川の周辺性が強調されている。なんとかコネでソウルの証券会社に就職したヘジュは、いつか家も引っ越して完全なソウル市民になりたいと願っている。

 ただ、私自身は外国人であるせいか、この映画を見るまではソウルと仁川にそれほど違いがあるとは思わなかった。仁川も首都圏だし、何よりも大都市である。人口は約300万人、20年前も今も、ソウル、釜山に次ぐ韓国第3の都市である。

 ソウルの近くにある港町だし、日本でいえば横浜かな? とも思っていたのだが、それは間違いだった。仁川と横浜はずいぶん違う。横浜は新幹線も停車するし、西から来る人にとっては首都圏の玄関口でもある。ところが仁川は韓国のどこから来ても「ソウルの向こう側」であり、しかもさらにその向こうには何もない、どん詰まりなのである。

 それは朝鮮半島が分断国家だからだ。

 日本の首都圏は位置的にも中心部にあるが、韓国の首都圏はそうではない。北朝鮮まで含めれば、ソウル首都圏は中心部になるのだが、現状ではそうはならない。

 「仁川は横浜というより埼玉かもしれません。ご当地映画もありますし」

 埼玉出身者が言っていたので、そうなのかもしれないが、街の成り立ちが全く違う。仁川の人口過密は朝鮮戦争と急激な産業化の影響である。

 「ヘジュの気持ちはよくわかるし、そう思っている若者は多いと思う。でも私はこの映画を見てもっと仁川が好きになった」

 そんな声を多く聞いたのは、冒頭に記した「ワラナコ運動」の頃だ。そもそも「子猫救出運動」の発祥地は仁川であり、映画を再上映が最初に行われたのも仁川。運動の先頭に立ったのは「子猫を愛する仁川市民の会」のメンバーたちだった。

テヒとミンジが見ていた仁川、その多様性

 ソウルに憧れるヘジュに対して、他の4人の視線はバラバラだ。なかでも視線が定まらないのはテヒであり、その揺らぎが投影される仁川の風景は、20年前でも新鮮だった。それはソウルの人々が知らなかった仁川の風景であり、チョン・ジェウン監督が見せたかった韓国の周辺部の姿だった。

 船員募集の貼り紙を見て、錨マークの海運会社のドアを開けると、中では東南アジア系の船員たちがくつろいでいる。テヒは戸惑うが、怯まない。

 「私も船に乗せてもらえませんか?」

 「お嬢ちゃん、俺たちの乗る船は遊覧船じゃないんだよ」

 「それは私も知っています」

 船員の多くはフィリピン人だろうか。後にはミャンマー人も登場するが、当時、韓国船籍の船で働く東南アジアの人々は多く、仁川や釜山などの港町には彼ら向けのバーなどがあった。

 テヒはその後に、ジヨンと連れ立って国際旅客ターミナルに向かう。ちょうど中国からの船が到着したのだろう、入国ゲートは巨大な荷物を持った人々があふれ出てくる。この人たちは韓国で暮らす華僑と中国の朝鮮族であり、荷物の中身は唐辛子や小豆といった農産物だ。

 「あの人たちはどこから来てどこに行くのかな?」

 テヒの声は少し興奮気味だが、ジヨンの関心はそこにない。

 ところが、しばらくしてマンソク高架道路の上で出会った女性ホームレスについては、ジヨンのほうが先に反応する。

 「いつか自分もあんなふうになりそうで怖い」

 「怖くはないけど、時々ああいう人を見ると気になって後をつけてみたくなる。毎日どんな生活をしているのか。でも、自由に暮らせてうらやましいと思わない?」

 「自由といえる? 私はそうは思わない。ああしていて、もし何かの事件に巻き込まれたらどうするの?」

 現実の貧困に押しつぶされそうなジヨンと、どこかモラトリアムのテヒはすれ違うのだが、この世代の強みは未来のほうが長いことだ。テヒの視線は国際化する仁川の風景を追いかけながら、同時にジヨンそのものにも注がれる。

 テヒが初めてジヨンの家を訪ねるシーンは印象的だ。ロケ地となったのは、仁川のマンソク洞にあるタルトンネ。ジヨンが祖父母と暮らす家は、天井が崩れ落ちつつあるバラックだった。

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プロフィール

伊東順子

ライター、編集・翻訳業。愛知県生まれ。1990年に渡韓。ソウルで企画・翻訳オフィスを運営。2017年に同人雑誌『中くらいの友だち――韓くに手帖』」(皓星社)を創刊。著書に『ピビンバの国の女性たち』(講談社文庫)、『もう日本を気にしなくなった韓国人』(洋泉社新書y)、『韓国 現地からの報告――セウォル号事件から文在寅政権まで』(ちくま新書)等。『韓国カルチャー 隣人の素顔と現在』(集英社新書)好評発売中。

 

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